マップ16 実証研究の3区分——何が「研究されている」のか
従来「実証研究の蓄積量」として一括りにしていたものを、性質の異なる3つに分解した。「アリストテレスの幸福論が大量に実証された」という誤読を防ぐための分解である。
この地図の結論
「実証研究が多い」は「妥当性が高い」を意味せず、しかも「多い」の中身は三種類に分かれる。思想そのものを検証した研究(直接的実証)が◎なのはキリスト教主流だけで、それも北米の礼拝参加に偏る。「非常に多」とされてきたアリストテレス・功利主義・ケイパビリティ(その人が実際に選べる生き方の幅)は、直接的実証がいずれも×であり、思想に着想を得た尺度(派生研究)と政策への実装が多いにすぎない。先住民系(ブエン・ビビール、マオリ)は心理学的検証を経ずに憲法・保健政策へ入っており、功利主義とは逆の順序をたどっている。神道は人数「中」で三区分すべてほぼ空白である。実務上の帰結:研究の蓄積量は「20世紀後半に西洋の心理学・政策市場と接触したか」を反映する。エビデンスの量で思想を序列化してはならず、「ほぼ空白」の思想(ジャイナ・シク・カバラ・ハシディズム・観想〔静かに神や真理を見つめる祈り〕・スーフィズム・アイヌ・神道)はむしろ未開拓の研究領域である。
| 区分 | 意味 | 典型例 |
|---|---|---|
| ①直接的実証 | その思想の信者・実践者・教義そのものを変数とした研究 | 礼拝参加と寿命、僧院の長期瞑想者、儒教的価値観尺度 |
| ②派生した心理学研究 | その思想に着想を得て作られた心理尺度・介入。直接の継承だけでなく、後世にその思想との関連・影響が明示的に論じられている研究を含む(例:CBT〔認知行動療法〕とストア派)。思想そのものの検証ではなく、系譜上の直接の派生を主張するものでもない | PWB(アリストテレス)、VIA-IS(現代の徳倫理学)、MBSR(仏教(上座部))、CBT(ストア派)、MLQ(実存主義) |
| ③政策・制度への実装 | 指標・法制度・保健政策への組み込み | WELLBY(功利主義)、HDI(ケイパビリティ)、憲法(ブエン・ビビール)、保健政策(マオリ) |
| 思想 | 直接的実証 | 派生した心理学研究 | 政策・制度への実装 |
|---|---|---|---|
| インド系(沙門) | |||
| 仏教(上座部) | ○ | ◎ | ○ |
| 仏教(大乗) | △ | ◎ | △ |
| 禅 | ○ | ○ | △ |
| 密教・チベット仏教 | ○ | ○ | △ |
| 仏教(浄土) | × | △ | △ |
| 仏教(日蓮) | △ | × | △ |
| インド系(ヴェーダ) | |||
| ヒンドゥー(ヴェーダーンタ) | △ | △ | × |
| ヒンドゥー(ギーター) | △ | △ | × |
| インド系(沙門) | |||
| ジャイナ教 | △ | × | × |
| インド系 | |||
| シク教 | △ | × | × |
| 東アジア | |||
| 儒教(原始) | ○ | ○ | △ |
| 新儒教 | △ | △ | × |
| 道家(老荘) | △ | ○ | × |
| 道教 | △ | ○ | △ |
| 神道 | △ | × | × |
| 修験道 | △ | △ | × |
| アブラハム系 | |||
| ユダヤ教 | ○ | △ | × |
| カバラ・ハシディズム | △ | × | × |
| キリスト教 | ◎ | ○ | △ |
| キリスト教観想的思想 | △ | △ | × |
| イスラム教 | ○ | △ | △ |
| スーフィズム | △ | △ | × |
| 古代地中海哲学 | |||
| プラトン | × | × | × |
| アリストテレス | × | ◎ | ○ |
| ストア派 | ○ | ◎ | △ |
| エピクロス派 | × | △ | × |
| キュニコス派・ピュロン主義 | × | × | × |
| 西洋近現代 | |||
| 功利主義 | × | ◎ | ◎ |
| カント | × | △ | × |
| ニーチェ | × | △ | × |
| 実存主義 | × | ◎ | △ |
| プラグマティズム | × | △ | ○ |
| 現代の徳倫理学 | × | ◎ | ○ |
| ケイパビリティ・アプローチ | × | ○ | ◎ |
| 世俗的人文主義 | ○ | △ | × |
| アドラー(個人心理学) | △ | ○ | △ |
| ユング(分析心理学) | △ | ○ | × |
| ポジティブ心理学1.0 | ◎ | ◎ | ○ |
| ポジティブ心理学2.0 | △ | ○ | △ |
| ポジティブ心理学3.0 | △ | ○ | ○ |
| 関係的・土着 | |||
| Ubuntu | △ | △ | ○ |
| アフリカ哲学の共同体主義 | × | × | △ |
| 先住民的世界観(総論) | △ | ○ | ○ |
| スマック・カウサイ | △ | × | ◎ |
| マオリ | ○ | ○ | ◎ |
| アイヌ | △ | × | △ |
| 北米先住民(Hózhó/Mino-Bimaadiziwin) | ○ | ○ | ○ |
◎=多い/○=ある/△=わずか/×=ほぼない。各セルの根拠はCSVの該当列に記載
参考:規模 × 総合の目安(3区分を合わせた粗い目安。性質の異なるものを足しているので、右側ほど「妥当」という読みはできない)
| 規模\実証研究の蓄積(総合の目安) | 非常に多 | 多 | 中 | 少 | ほぼ空白 |
|---|---|---|---|---|---|
| 多(1億人以上) | 仏教(上座部)、キリスト教 | 仏教(大乗)、道教、イスラム教 | 仏教(日蓮)、ヒンドゥー(ヴェーダーンタ)、ヒンドゥー(ギーター) | 仏教(浄土) | |
| 中(1,000万〜1億) | 禅、密教・チベット仏教、ユダヤ教 | シク教、神道、スーフィズム | |||
| 少(1,000万未満) | 世俗的人文主義、マオリ、北米先住民(Hózhó/Mino-Bimaadiziwin) | ジャイナ教、修験道、カバラ・ハシディズム、キリスト教観想的思想、アイヌ | |||
| ×(人数で表せない) | アリストテレス、功利主義、ケイパビリティ・アプローチ(各人が実際に選べる生き方の幅で豊かさを測る立場)、ポジティブ心理学1.0 | 実存主義、現代の徳倫理学 | 儒教(原始)、ストア派、プラグマティズム、アドラー(個人心理学)、ポジティブ心理学2.0、先住民的世界観(総論) | 新儒教、道家(老荘)、エピクロス派、カント、ニーチェ、ユング(分析心理学)、ポジティブ心理学3.0、スマック・カウサイ | プラトン、キュニコス派・ピュロン主義、Ubuntu(「人は他者を通して人になる」という南部アフリカの人間観)、アフリカ哲学の共同体主義 |
読み取れること
・「非常に多」とされてきたアリストテレス・功利主義・ケイパビリティは、①直接的実証がいずれも×である。思想家の幸福論が検証されたのではなく、思想に着想を得た尺度と指標が大量に作られた、というのが正確な記述になる。
・①直接的実証が◎なのはキリスト教主流だけであり、それも母集団が北米に偏る。宗教思想について「実証されている」と言えるのは、事実上「北米のキリスト教徒の礼拝参加」である。
・③実装が◎なのは功利主義・ケイパビリティに加えて、ブエン・ビビール(憲法)とマオリ(保健政策)——先住民系の幸福概念は心理学研究より先に国家制度へ入った。心理学的な検証を経ずに制度化された点で、功利主義とは逆の順序をたどっている。
・信者数が「多」でも研究が「中」にとどまる思想(イスラム教、仏教(大乗))と、人数で表せないのに研究が「非常に多」い立場(アリストテレス、功利主義、ケイパビリティ)がある。研究の蓄積量は信者の数ではなく、20世紀後半に西洋の心理学・政策市場と接触したかで決まっている。
・「少/ほぼ空白」にはジャイナ教・シク教・カバラ・ハシディズム・キリスト教観想的思想・スーフィズム・アイヌが並ぶ。これは「妥当性が低い」ことを意味しない。「幸福の技法」として商品化されにくかった思想である。
・神道は人数「中」で①②③すべてほぼ空白——神道を変数とした研究が事実上存在しない。日本の幸福研究における空白として明記に値する。
・「非常に多」とされてきたアリストテレス・功利主義・ケイパビリティは、①直接的実証がいずれも×である。思想家の幸福論が検証されたのではなく、思想に着想を得た尺度と指標が大量に作られた、というのが正確な記述になる。
・①直接的実証が◎なのはキリスト教主流だけであり、それも母集団が北米に偏る。宗教思想について「実証されている」と言えるのは、事実上「北米のキリスト教徒の礼拝参加」である。
・③実装が◎なのは功利主義・ケイパビリティに加えて、ブエン・ビビール(憲法)とマオリ(保健政策)——先住民系の幸福概念は心理学研究より先に国家制度へ入った。心理学的な検証を経ずに制度化された点で、功利主義とは逆の順序をたどっている。
・信者数が「多」でも研究が「中」にとどまる思想(イスラム教、仏教(大乗))と、人数で表せないのに研究が「非常に多」い立場(アリストテレス、功利主義、ケイパビリティ)がある。研究の蓄積量は信者の数ではなく、20世紀後半に西洋の心理学・政策市場と接触したかで決まっている。
・「少/ほぼ空白」にはジャイナ教・シク教・カバラ・ハシディズム・キリスト教観想的思想・スーフィズム・アイヌが並ぶ。これは「妥当性が低い」ことを意味しない。「幸福の技法」として商品化されにくかった思想である。
・神道は人数「中」で①②③すべてほぼ空白——神道を変数とした研究が事実上存在しない。日本の幸福研究における空白として明記に値する。