マップ3 幸福の主語——誰が幸福であるのか
この地図の結論
「あなたは幸せですか」と個人に尋ねることが、そもそも成り立たない思想が半数ある。幸福の主語を個人に置くのは古代地中海哲学と西洋近代を中心とする一群にとどまり、関係・共同体(儒教・Ubuntu〔「人は他者を通して人になる」という南部アフリカの人間観〕・シク・ユダヤ・仏教(大乗)・アドラー(個人心理学))、人を超えた関係の網(先住民系・道教・修験道)、社会の集計値(功利主義)、主語が消える(スーフィズム・カバラ・ハシディズム・禅)が並ぶ。実務上の帰結:主観的ウェルビーイング尺度(本人が自分の幸せをどう評価しているか)はすべて個人を回答単位とするため、主語が個人でない思想では「測ろうとしているもの」と「語られているもの」が構造的にずれる。協調的幸福尺度(Hitokoto & Uchida 2015)はこの問題への数少ない応答であり、組織や地域の幸福を扱うときには「誰の幸福を数えているか」を先に決める必要がある。
この地図の目盛りの定義
◎○△×の件数は「47の思想をこの見方で分類した内訳(=見方の多様さ)」であって、実証研究の裏づけや、思想の優劣を表すものではありません。
| 目盛り | 定義 |
|---|---|
| 個人 | 幸福の主語は一人の人間であり、その内面の状態や生き方として語られる |
| 関係・共同体 | 幸福は人と人の関係の場(家・共同体・契約共同体)に成立し、個人はその成員として幸福になる |
| 人を超えた関係の網 | 関係の担い手が人間の外——土地・祖先・動植物・カムイ(アイヌの世界観における神々。熊・火・道具なども含む)——まで広がり、その全体の調和が幸福とされる |
| 社会の集計値 | 幸福は個人の内面ではなく社会全体の合計量(効用の総和)として扱われる |
| 主語が消える | 幸福を語る「私」そのものが消えること(消滅・無化・脱落)が目標であり、誰が幸福かという問いが成り立たなくなる |
おそらく最も見落とされやすい軸である。
- 個人——ストア派、エピクロス派、ジャイナ教、ヒンドゥー(ヴェーダーンタ)、カント、ニーチェ、ユング(分析心理学)、実存主義、プラトン、アリストテレス、キュニコス派・ピュロン主義、現代の徳倫理学(共同体的物語のなかの個人)、世俗的人文主義、ポジティブ心理学1.0(測定単位も介入対象も個人)、ポジティブ心理学2.0(個人の実存。自己超越を含む)、仏教(浄土:阿弥陀仏との関係に立つ凡夫)、仏教(上座部:ただし主語は「五蘊の流れ」であり実体的な自己ではない)、密教・チベット仏教(行者の身体=本尊。ただし菩提心〔すべての生きもののために悟りを目指す誓いの心〕は一切衆生〔生きとし生けるものすべて〕に向く)、ヒンドゥー(ギーター:神との関係に立つ個人)
- 関係・共同体——儒教(原始)、Ubuntu、アフリカ哲学の共同体主義、シク教、ユダヤ教、仏教(大乗)、キリスト教主流(教会=キリストの体)、イスラム教(ウンマ〔イスラームの信仰共同体〕)、神道(氏子・共同体の祭)、プラグマティズム(民主主義的共同体における成長)、仏教(日蓮:立正安国——個人の信と国土の安穏が一つ)、アドラー(個人心理学:共同体感覚〔他者を仲間と感じ、役に立とうとする感覚〕。西洋近代の哲学・心理学では例外的)
- 人を超えた関係の網(人+土地+祖先+他種)——マオリ、アイヌ、スマック・カウサイ、先住民的世界観(総論)、北米先住民(Hózhó/Mino-Bimaadiziwin:Mitákuye Oyás'iŋ=すべては私の親族)、新儒教(万物一体の仁〔天地万物を自分の身体のように感じる思いやり〕)、道教(身体=小宇宙)、ポジティブ心理学3.0(個人・関係・組織・社会・生態系という複数の水準のシステム)、修験道(山=曼荼羅=身体)
- 社会の集計値——功利主義(効用の総和)、ケイパビリティ・アプローチ(個人のケイパビリティ〔その人が実際に選べる生き方の幅〕を社会指標として集計)
- 主語が消える——スーフィズム(fanāʾ〔自我が神のうちに消えること〕)、カバラ・ハシディズム(bittul〔自我の無化〕)、禅(身心脱落〔身も心も抜け落ちる、道元が悟りを表した語〕)、キリスト教観想的思想(theosis=自己中心性の解体)、道家(老荘:吾喪我〔「私が私を失う」=小さな自我から離れた状態。荘子〕)
主観的ウェルビーイング尺度(SWLS〔人生満足度尺度〕、PANAS〔ポジティブ・ネガティブ感情尺度〕、Cantril Ladder〔0〜10の梯子で人生を評価する質問〕)はすべて個人を回答単位とする自己申告である。したがって、上の2番目以降の思想については、尺度が測ろうとしているものと思想が語っているものが構造的にずれる。Hitokoto & Uchida (2015) の Interdependent Happiness Scale は、この問題への数少ない正面からの応答である。