世界の思想と宗教の幸福観マップ

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マップ7 苦の位置づけ——苦は妨げか、通過点か

この地図の結論
苦を「取り除くべきもの」とする思想は少数で、多くは苦を通過点・必要条件・意図的に引き受けるものと位置づける。功利主義・エピクロス派・道教・神道・プラトン・アリストテレスが苦を除去対象とするのに対し、先住民系は苦を関係の失調の徴候として修復の対象にし、ストア派・ヒンドゥー(ギーター)・道家(老荘)は苦楽の対そのものから離れる。禅の大疑(公案に行き詰まって生じる大きな疑い。悟りの前段階とされる)、キリスト教観想的思想の暗夜(神が見えなくなる霊的な危機の時期)、ジャイナ・修験道の苦行、ニーチェとユング(分析心理学)の「苦なくして幸福なし」は、苦を道の内側に置く。
実務上の帰結:この軸は実証研究と思想の断層が最も大きく開く場所である。PANAS(ポジティブ・ネガティブ感情尺度) のようなネガティブ感情尺度では、思想内部で「進歩の指標」とされる涙・断食・大疑が「幸福度の低下」として測定されうる。同時に、苦を引き受ける実践には師弟・共同体・段階的入門という安全装置が伴っていたことを忘れると、介入への翻訳で危険だけが残る(瞑想の有害事象〔治療や介入で生じた望ましくない出来事〕8%)。
この地図の目盛りの定義

◎○△×の件数は「47の思想をこの見方で分類した内訳(=見方の多様さ)」であって、実証研究の裏づけや、思想の優劣を表すものではありません。

目盛り定義
除去すべき妨げ苦は幸福の反対であり、取り除く対象。仏教(上座部)、エピクロス派、神道など
診断の出発点苦は問題を診断し、道を始める手がかり(四聖諦〔苦・その原因・その消滅・そこに至る道、という仏教の四つの真理〕の第一、探究の始動、劣等感)
関係の失調の徴候苦は個人の内的状態ではなく、共同体・土地・祖先・カムイ(アイヌの世界観における神々。熊・火・道具なども含む)との関係の網の破れとして現れ、修復の対象になる(先住民系)
通過点・進歩の指標苦は道の途中に必ず現れ、その出現がむしろ進歩のしるしとされる(禅の大疑、キリスト教観想的思想の暗夜)
意図的に引き受ける苦を自ら引き受けること(断食・苦行・不眠)が実践の一部をなす
幸福の必要条件苦がなければ幸福も成立しない。抵抗の克服(ニーチェ)、正当な苦しみ(ユング(分析心理学))
善悪の外に置く苦を悪と判断しない。苦楽の対を離れた平静を目指す(ストア派・ヒンドゥー(ギーター)・道家(老荘))
位置づけ該当
除去すべき妨げポジティブ心理学1.0(ネガティブ感情の比率を下げる。苦は増進の対象外)/功利主義(純粋に負の量)/エピクロス派(苦の除去が幸福の上限)/道教(病・老・死)/神道(穢れ)/プラトン(身体的快苦からの魂の解放)/アリストテレス(大きな不運は幸福を損なう外的悪)/現代の徳倫理学(逆境は徳を試すが、外的善〔健康・財産・友人など、自分の外にある善いもの〕の欠損は幸福を損なう)/世俗的人文主義/ケイパビリティ・アプローチ(剥奪)
診断の出発点仏教(上座部:四聖諦の第一)/ヒンドゥー(ヴェーダーンタ:誤認の帰結)/プラグマティズム(問題状況が探究を始動させる)/アドラー(個人心理学:劣等感は成長の動因)/仏教(浄土:苦と悪の自覚が本願に出会う契機)
関係の失調の徴候(修復の対象)Ubuntu(「人は他者を通して人になる」という南部アフリカの人間観)/アフリカ哲学の共同体主義/先住民的世界観(総論)/スマック・カウサイ(釣り合いの崩れ)/マオリ(四つの柱〔身体・心・家族・霊性。マオリの健康モデル Te Whare Tapa Whā の四本柱〕の不均衡)/アイヌ(カムイとの関係の失調)/北米先住民(Hózhó/Mino-Bimaadiziwin:hóchxǫ́=不調和)/ポジティブ心理学3.0(苦はシステムの不均衡のシグナル)。苦は個人の内的状態ではなく、関係の網の破れとして現れ、修復儀礼・対話で扱う
通過点・進歩の指標キリスト教観想的思想(penthos=涙の賜物)/スーフィズム(自己解体の危機)/カバラ・ハシディズム(絶望と喜びの弁証法〔対立する二つが互いを通して高まっていく運動〕)/禅(大疑・身心脱落〔身も心も抜け落ちる、道元が悟りを表した語〕)/実存主義(態度価値〔変えられない苦難にどう向き合うかに宿る価値。フランクル〕)/仏教(日蓮:「難来るを以て安楽と意得べきなり」——法難は行者の証し)/キリスト教主流(受難への参与、「患難は忍耐を生む」)/イスラム教(試練 ibtilāʾ〔試練〕 と忍耐 ṣabr〔忍耐〕)/ユダヤ教(ヨブ記・亡命は契約を問い直す場)/シク教(「苦は薬、楽は病」——グル・ナーナク)/儒教(原始:「君子固より窮す」——困窮は徳を試す場)
意図的に引き受けるジャイナ教(苦行tapas〔苦行〕が業を焼く)/キュニコス派・ピュロン主義(寒暑・空腹への曝露)/修験道(苦行が罪障を焼く)/仏教(大乗:菩薩が衆生の苦を代わって受ける=代受苦〔菩薩が他者の苦しみを代わりに引き受けること〕)
善悪の外に置く(苦楽の対を離れる)ストア派(苦痛は「どうでもよいもの」であり、悪と判断することが苦をつくる)/ヒンドゥー(ギーター:2.38「苦楽を等しく見て」)/道家(老荘:安時処順〔時に安んじ、成り行きに従うこと。荘子〕)/新儒教(貧富に左右されぬ楽)/カント(苦楽は道徳と無関係。幸福に「値する」ことだけが問題)/キュニコス派・ピュロン主義(判断保留〔善悪の判断をいったん止めること〕の影として平静が訪れる)
幸福の必要条件ニーチェ(抵抗がなければ力の増大もない)/密教・チベット仏教(煩悩〔心を乱す欲望や怒り〕を燃料にする)/ユング(分析心理学:神経症〔不安や強迫など、心の葛藤から生じる症状〕は正当な苦しみの代用品)/ポジティブ心理学2.0(苦を通しての開花。成熟した幸せは苦を素材とする)
この軸は、現代の実証研究と思想のあいだの断層が最も大きく開く場所である。主観的ウェルビーイング尺度(本人が自分の幸せをどう評価しているか)では、上の表の下3行に該当する思想の実践は、「幸福度の低下」あるいはネガティブ感情の増加として捉えられる可能性が高い。キリスト教観想的思想の涙、スーフィーの断食と不眠、ジャイナ教の苦行、禅の大疑——いずれも思想内部では進歩の指標だが、PANAS のネガティブ感情項目としてカウントされる。
「宗教は幸福に良い」という形の要約は、この点で6つのアブラハム系思想すべてを裏切る。
はぴテックの二枚の地図 発達段階×ウェルビーイング統合マップ → この幸福観マップの姉妹版。あちらは「縦に5段階を貫く翻訳辞書」で、同じ言葉が段階ごとに別の意味で聞こえる(875行×5段階)。