マップ12 発達段階マップ——器の段階 × 目標の段階【解釈】
縦軸=その思想が実践を運営する「器」(共同体・戒律・師弟なら順応型、個人の理性と選択なら自己主導型)。横軸=その思想が目指す自己の在り方。二つを分けて置くと、「順応型の器の中で自己変容型の目標を追う」という宗教思想に共通する構造が一枚で見える。横軸の「段階軸の外」は段階5の上位ではなく、キーガンの段階論とは別軸の自己論(自己境界の解除)である。段階4.5はキーガン自身の段階ではなく、ラルーのグリーン(多元型)を段階4と5の間に置いたもの——自律を確立したうえで関係性・多元性・共同体を再び中心に据える目標——で、段階4(自律そのもの)とも段階5(自己の相対化)とも区別した。
実務上の帰結:「順応型の組織は低く、自己変容型は高い」という読みは、器と目標を混同した誤読である。組織の発達段階を診断するときも、「どんな器で運営されているか」と「何を目指しているか」は別に測る必要がある。段階4.5(グリーン)を分けたのは、自律を経たうえで関係性・多元性を再獲得する目標(アドラー(個人心理学)・プラグマティズム)が、段階4とも5とも異なるためである。
この地図の目盛りの定義
◎○△×の件数は「47の思想をこの見方で分類した内訳(=見方の多様さ)」であって、実証研究の裏づけや、思想の優劣を表すものではありません。
| 目盛り | 定義 |
|---|---|
| 器=環境順応型 | 実践が師弟・戒律・共同体という外的な枠によって運営される。キーガンの段階3/ラルーのアンバーに相当する構造 |
| 器=自己主導型 | 実践が個人の理性・選択・自己の基準によって運営される。段階4/オレンジに相当 |
| 器を持たない | 実践を運営する共同体的な構造をもたない(哲学・制度・口承) |
| 目標=段階3 | 共同体への帰属・調和そのものが目指す自己の在り方 |
| 目標=段階4 | 自律・自己主導(自ら法則を立て、自分の基準で選ぶ)が目指す在り方。ラルーのオレンジ |
| 目標=段階4.5 | 自律を確立したうえで、関係性・多元性・共同体を再び中心に据える在り方。ラルーのグリーン(多元型)。キーガン自身の段階ではなく、4と5の間に置いた |
| 目標=段階5 | 自己変容・矛盾の保持(自分の基準すら相対化し、対立するものを同時に抱える)が目指す在り方。ラルーのティール |
| 目標=段階軸の外 | 無我・梵我一如・吾喪我など、自己境界そのものの解除。段階5の上位ではなく、段階論とは別軸の自己論 |
| 適用不能 | 個人を発達の単位とする段階論の前提自体が、その思想の自己観と合わない |
| 目標=段階3(共同体への帰属)/アンバー | 目標=段階4(自律・自己主導)/オレンジ | 目標=段階4.5(自律を経て関係性・多元性を再獲得)/グリーン | 目標=段階5(自己変容・矛盾の保持)/ティール | 目標=段階軸の外:自己境界の解除(無我・消滅) | 適用不能 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 器=環境順応型(戒律・共同体・師弟)/アンバー | 神道 | 仏教(日蓮)、ジャイナ教、儒教(原始)、ユダヤ教、イスラム教、アリストテレス、現代の徳倫理学 | 密教・チベット仏教、仏教(浄土)、ヒンドゥー(ギーター)、シク教、道教、修験道、カバラ・ハシディズム、キリスト教、キリスト教観想的思想 | 仏教(上座部)、仏教(大乗)、禅、ヒンドゥー(ヴェーダーンタ)、スーフィズム | ||
| 器=自己主導型(個人の理性・選択)/オレンジ | プラトン、エピクロス派、カント、実存主義、世俗的人文主義 | プラグマティズム、アドラー(個人心理学) | 新儒教、ストア派 | |||
| 器を持たない(哲学・制度・口承) | ポジティブ心理学1.0 | ポジティブ心理学3.0 | キュニコス派・ピュロン主義、ニーチェ、ユング(分析心理学)、ポジティブ心理学2.0 | 道家(老荘) | 功利主義、ケイパビリティ・アプローチ(各人が実際に選べる生き方の幅で豊かさを測る立場)、Ubuntu(「人は他者を通して人になる」という南部アフリカの人間観)、アフリカ哲学の共同体主義、先住民的世界観(総論)、スマック・カウサイ、マオリ、アイヌ、北米先住民(Hózhó/Mino-Bimaadiziwin) |
CSVの「発達段階論から見た位置づけ」列は、キーガンの段階(3環境順応型/4自己主導型/5自己変容型)とラルーの色(アンバー/オレンジ/グリーン/ティール)を物差しに、各思想が前提とする自己の構造を読んだものである。これは解釈であり、各思想の自己記述ではない。使う前に次の三つの留保を置く。
- 「高い段階ほど良い」という読みを投影しない。段階論は自己の構造の複雑さを測るもので、幸福観の優劣ではない。
- 段階的発達そのものを否定する思想がある。禅の修証一等(修行と悟りは別でない)、新儒教の回復モデル(本体はもともと具わっている)、ヒンドゥー(ヴェーダーンタ:もともとそうだったと気づく)、道家(老荘:減らしていく)は、いずれも「上へ進む」図式を明示的に退ける。これらには「適用不能」または「方向が逆」と書いた。
- 「関係的自己」を段階3(環境順応型)と混同しない。Ubuntu・先住民・アイヌ・マオリ・北米先住民(Hózhó/Mino-Bimaadiziwin)が語る関係的自己は、発達の一段階ではなく人格の成立条件についての存在論的主張であり、段階論の前提(個人が発達の単位)そのものを争っている。当事者研究者が最も批判する型の誤読であり、これらの行には「適用不能」と明記した。
| 読み方 | 該当 |
|---|---|
| 段階4(自己主導型)の哲学的定式 | カント(自律=自ら法則を立てる)/ストア派(自分次第のものだけに集中)/実存主義(本来性=自ら選ぶ)/プラトン(理性の統治)/アドラー(個人心理学:目的の自覚・ライフスタイルの選び直し) |
| 段階4.5(グリーン)的な目標——自律を経て関係性・多元性を再獲得 | アドラー(個人心理学:共同体感覚〔他者を仲間と感じ、役に立とうとする感覚〕)/プラグマティズム(民主主義を共同生活の様式とする成長)/世俗的人文主義(部分的。オレンジ〜グリーン) |
| 段階4→5への移行の記述 | ニーチェ(自己超克)/禅(段階4の徹底の果てに枠が抜ける)/新儒教(万物一体)/スーフィズム(fanāʾ〔自我が神のうちに消えること〕→baqāʾ〔神のうちに存続すること。fanāʾの後に区別が回復する段階〕)/キリスト教観想的思想(自己中心性の解体)/ユング(分析心理学:人生後半の自我の相対化) |
| 段階軸の外:自己境界の解除 | 仏教(上座部:無我)/ヒンドゥー(ヴェーダーンタ:自己同一化の解除)/道家(老荘:吾喪我)。これはキーガンの理論から導かれる「段階5より上の段階」ではない。段階論は自己の複雑化を測るが、無我・梵我一如・吾喪我は自己の境界そのものを解く別軸の自己論であり、「上る」のではなく「解ける」。この行は段階の目盛り上にはなく、軸の外に置く |
| 段階3の器+段階5の目標が併存 | 仏教(上座部:僧団+無我)/密教・チベット仏教(灌頂〔密教で師が弟子に資格を授ける儀式〕+煩悩の転用〔欲や怒りを消すのではなく悟りの燃料にする密教の考え〕)/カバラ・ハシディズム(ツァディーク〔ハシディズムの指導者〕+bittul〔自我の無化〕)/キリスト教(教会+恩寵の逆説)/スーフィズム(導師+消滅)/修験道(先達・講+即身成仏)。多くの宗教思想は「順応型の器」の中で「自己変容型の目標」を追う(無我・消滅を目標とするものは上の「段階軸の外」にも該当) |
| 段階論と直交(別の軸) | 道教(身体・生命力)/功利主義(集計量。個人の構造を無視)/ケイパビリティ(社会的条件) |
| 段階論と最も親和的 | プラグマティズム(デューイの成長概念は発達観そのもの)/ケイパビリティ(選択肢の幅の拡大を発達と見る点で補完的) |
| 適用不能 | Ubuntu/アフリカ哲学の共同体主義/先住民的世界観(総論)/スマック・カウサイ/マオリ/アイヌ/北米先住民(Hózhó/Mino-Bimaadiziwin) |
このマップを読んだ人から、二つの問いを受けた。一つは「発達段階が上がった人は、師匠になってまた弟子をとるのか。上がった人たちの過ごし方が気になる」。もう一つは「この人たちは段階を目指すより、何かを捨てていくことで幸せにたどり着くなら、獲得を目指すより、気づくことや捨てることを意識して過ごしているのか」。どちらも47の思想が実際に答えを持っている問いなので、ここにまとめておく。
問い1 上がった人は、師匠になるのか
多くの思想は「上がった後」をはっきり書いていて、その答えは「師匠になる」よりも「日常に降りてくる」に近い。
もっとも分かりやすいのが禅の「十牛図」である。牛(本来の自己)を探して捕まえ、牛も自分も忘れ(第8図、円だけの絵)、そこで終わりではない。第9図で山や川が元どおりに見え、第10図「入鄽垂手(にってんすいしゅ。町に入って手を差し伸べる)」で、布袋のような姿で市場に戻って人と関わる。到達点は山の上ではなく市場である。スーフィズムのファナー(自我が神のうちに消える)とバカー(神によって生き直される)も同じ構造で、消えたままではなく区別が回復して日常に戻ることが完成とされる。プラトンの洞窟の比喩では、太陽を見た者は洞窟に戻り、暗さに目が慣れないまま人に語る義務を負う。仏教(大乗)の菩薩は、悟っても輪廻(生まれ変わりの繰り返し)を出ずに衆生のそばに残ることを選ぶ。儒教(原始)なら「修己治人」——自分を修めることは人を治める(世話をする)ことに直結し、隠遁は本来の姿ではない。修験道の里修験(山を下りて村に住み、祈祷や加持を行う修験者)も、山で得た験力(修行で得た力)を村人の現世の安寧のために使うのが役目である。
つまり「その後」は、教える立場になる場合もあるが、思想が本当に強調しているのは、普通の暮らしに戻り、働き、人と関わる——ただし関わり方の質が変わっている、ということである。道元の「修証一等(修行と悟りは一つ。悟ったから修行が終わるのではない)」や禅の「悟後の修行」という言葉は、上がった人ほど毎日の坐禅や作務(禅寺での掃除・炊事などの労働。修行の一部)をやめないことを示す。
「師匠になって弟子をとる」は、このマップの言葉でいえば「器」の側の仕組みである。師弟制度は思想を次の世代に伝えるための社会的装置で、禅の印可、スーフィー教団のシャイフ、カバラ・ハシディズムのレベ、チベットの転生ラマのように、多くの思想がこれを制度化している。ただそれは「上がった人の幸せの形」というより「器を維持する役割」であり、当人が師匠にならなくても思想は成立する。仏教(上座部)のアラハント(悟りに達した人)は教えることを義務とされないし、道家(老荘)は師弟制度そのものを笑う節がある。
もう一つ、このマップが気をつけている点がある。キーガンの理論でも、段階5の人は「システムの外に出た人」ではなく「複数のシステムを行き来できる人」である。宗教思想が言う「降りてくる」はこれとよく重なる。上がった人が戒律や儀礼という段階3的な器の中に平然と居続けられるのは、器を超えたからではなく、器を器として使えるようになったからである。だから「上がったらどう過ごすか」へのマップなりの答えは、「同じ暮らしを、違う仕方で続ける」になる。
問い2 獲得よりも「気づく」「捨てる」を意識して過ごすのか
その通りで、しかもそれをもっとも端的に言葉にしているのが老子である。「為学日益、為道日損」(学を為す者は日に益し、道を為す者は日に損す)——学ぶ人は毎日何かが増えていくが、道を行く人は毎日何かが減っていく。47のうち除去・回復型が6、認識転換型が4、合わせて10の思想は、まさに「減らす」「見抜く」を毎日の構えにしている。仏教(上座部)なら渇愛を減らす、新儒教なら私欲を去る(天理はもともと具わっているので足すものはない)、ヒンドゥー(ヴェーダーンタ)なら何かを捨てるというより「私は有限な個人だ」という誤認を見抜く、ストア派なら出来事への判断を吟味して「それは本当に悪いことか」と問い直す。方向はすべて「減らす」か「見抜く」である。
ただし、二つの但し書きが要る。
一つ目は、「捨てる」を目標にすると同じ罠にはまることを、思想自身が知っている点である。「悟りを得たい」が執着であるのと同じく、「執着を捨てたい」も執着になる。だから禅は「悟りを求める心そのものをやめてただ坐る」(只管打坐)と言い、道家(老荘)は「捨てようとする作為」まで捨てる。獲得志向を捨てる志向に置き換えても、動詞が「目指す」のままなら中身は変わっていない、というのが彼らの見立てである。マップ1で除去型の隣に副産物型(幸せを目標から外すと影のようについてくる)があるのはそのためである。
二つ目は、それでも彼らの毎日は「捨てる」という行為には見えない、という点である。実際にやっているのは坐る、掃除する、托鉢に行く、経を読む、礼拝する、という地味で反復的なことである。「減らす」は決意や意識ではなく、器の側の型どおりの実践を通じて、結果として起きる。ここがこのマップの「器と目標を分けて読む」の要点で、目標は「捨てる・気づく」でも、日々の過ごし方は段階3的な「決まりどおりに続ける」なのである。「気づくことを意識して過ごす」というより、「気づきが起きる場所に、毎日身を置き続ける」と言うほうが近い。
現代の言葉に翻訳すると、マップ14の8つの介入類型のうち「取り除く」「見方を変える」「副産物として待つ」「身体を整える」がこの人たちの日常で、「伸ばす」はほとんど出てこない。そして興味深いのは、「減らす」型の思想ほど、個人の修養の方法が精密に体系化されていることである(仏教(上座部)の戒・定・慧、ストア派の毎晩の反省、禅の作務)。減らすためにこそ、やることは細かく決まっている。獲得を目指さない人たちのほうが、実は一日の型がしっかりしている——これがマップ12から見える、少し逆説的な答えである。