以心伝心
心をもって心に伝える。言葉や文字では届かない核心を、心から心へ直接に伝えること。
出典の物語
禅の教えがどのように伝えられてきたかを表す言葉である。『六祖壇経』には、五祖弘忍が慧能に教えを伝える場面で、「教えは、心をもって心に伝える。それぞれが自分で悟り、自分で理解するようにさせる」と記されている。黄檗(おうばく)というお坊さんの『伝心法要(でんしんほうよう)』という本は、題名そのものが「心を伝える教えの要点」で、「ただこの一つの心を伝えるだけで、ほかに教えはない」と繰り返している。達磨が慧可に伝えたものも、お釈迦さまが迦葉に伝えたものも、教義でもお経でもなく、「心」であった。ここでいう「心」は、感情や考えという意味ではなく、仏の心、本当の自分、真理そのもののことである。禅はお経を否定しないが、お経は「月を指さす指」であって、月そのものではないとする。月そのものは、指ではなく、心から心へしか渡せない。大事なのは、「以心伝心」が「自分で悟り、自分で理解させる」と並べて語られていること。心を伝えるといっても、師匠が弟子に何かを注ぎ込むのではない。弟子が自分で悟るように仕向ける、その働きかけ全体を「心を伝える」と呼ぶのである。今では「言わなくても分かり合える」という意味で使われるが、もとの意味はもっと厳しく、「言葉で渡せないものを、それでも渡す」という師弟の格闘の名である。
出典:『六祖壇経』/『伝心法要』(黄檗希運)/『景徳伝灯録』
ウェルビーイング研究とのつながり
言葉で説明できる知識(形式知)と、体験を通してしか伝わらない知識(暗黙知)の区別は、Polanyiが「我々は語れる以上のことを知っている」と述べて以来、知識研究の基本となった(Polanyi, 1966)。組織の中で暗黙知が伝わるには、共に時間を過ごし、同じ体験をする「共同化」の過程が不可欠であることも示されている(Nonaka & Takeuchi, 1995)。「心から心へ」という以心伝心は、暗黙知の伝達そのものを指している。
現代の暮らし・仕事への示唆
「言わなくても分かるだろう」は、しばしば甘えや怠慢の言い訳になる。しかし本来の以心伝心は、言葉を省くことではなく、言葉を尽くした上でなお残るものを渡そうとする営みである。技術の伝承、価値観の継承、組織文化の共有。マニュアルに書けることはマニュアルで渡せばよい。書けないものは、一緒に時間を過ごし、背中を見せ、失敗を許し、問いを投げることでしか渡らない。研究でいう暗黙知の移転には、まさにこの共体験が不可欠とされる。あなたが次の世代に、心から心へ渡したいものは何か。
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