幸せの禅語百選

第2章 手放す ・ 21 / 100

不識

ふしき

「知らぬ」。達磨が武帝の「お前は何者だ」という問いに返した一語。知識や概念で自分を規定することを拒んだ、底の抜けた答え。

出典の物語

達磨(だるま)と武帝の問答の、最後の一言である。武帝は「聖なるものすら無い」と答えた達磨に向かって、「では、私の目の前にいるお前は何者なのだ」と問いただした。達磨は答えた。「知らぬ(不識)」。これは「分かりません」という降参ではない。達磨は、自分が何者であるかを、名前や経歴や「聖者」といった言葉で説明することを拒んだのである。「私は達磨だ」「インドから来た僧だ」と言ったとたん、自分は一つの枠に収まった「何か」になってしまう。本当の自分は、そうやって知る対象にはならない。目が自分の目を見られないように、「知る働き」そのものは知ることができない。だから「知らぬ」。この問答を解説した圜悟(えんご)というお坊さんは、この一言を「氷のように冷たく、剣のように鋭い」と評した。後に武帝が師に相談すると、師は「あの方は観音さまの生まれ変わりです」と言った。武帝は悔やんで使いを出したが、達磨は戻らなかった。

朕に対する者は誰ぞ ── 不識(ふしき)(『碧巌録』第一則)

出典:『碧巌録』第一則「達磨廓然」

ウェルビーイング研究とのつながり

自分を「こういう人間だ」と固定的にとらえる見方(固定マインドセット)は、挑戦の回避や失敗からの立ち直りの遅れと結びつく一方、能力や性格は変わりうると考える見方(成長マインドセット)は粘り強さと結びつく(Dweck, 2006)。また、自分をいくつもの側面から多面的にとらえている人ほど、一つの領域での失敗が全体に波及しにくい(Linville, 1987)。「不識」は、自分を一つのラベルに固定しないことの、最も徹底した形だと言える。ただし、自分の価値観がはっきりしていること自体は幸福と結びつく(Campbell et al., 1996)ので、「知らぬ」は価値観の放棄ではなく、ラベルへの固執の放棄として読むのがよい。

現代の暮らし・仕事への示唆

自己紹介を求められると、私たちは肩書きと経歴を並べる。それは便利だが、やがてその説明が自分自身だと思い込むようになる。達磨の「不識」は、どんな説明にも収まらない自分がいることを思い出させる。「自分は内向的だから」「自分は数字に弱いから」というラベルは、自分を守ると同時に縛る。心理学でも、固定的な自己認識(固定マインドセット)が成長を妨げることが知られている。自分が何者かを「知らない」でいられること。それは不安ではなく、可能性が開かれたままでいることだ。

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