世界の思想と宗教の幸福観マップ

各思想からの悩み相談30 ・ 自分 18/30

何者かになりたい

この悩みの形

「何者かになりたい」という願いは、裏返すと「今の自分は何者でもない」という感覚です。この悩みが苦しいのは、願いの中身が自分で決められないからです。「何者か」とは、たいてい、誰かに認められた誰かのことです。つまり主語は自分なのに、判定者は他人です。自分の努力で近づけるはずなのに、ゴールのテープを持っているのは世間の目で、そのテープは走るたびに遠ざかります。

本マップの語彙で見ると、この悩みは開花型(持っている力を伸ばして発揮する)の裏返しです。世の中の標準的な答えは「夢を持て」「自分を伸ばせ」「個性を出せ」で、すべて開花型です。しかし47の伝統のうち開花型は少数派で、しかもその少数派ですら、正しく読むと「有名になれ」「特別になれ」とは言っていません。多数派の伝統は、幸せの主語を「個人」ではなく関係や共同体に置くか、あるいは「私」という主語そのものがほどけていくことを目標にしています。「何者かになる」の反対方向、「何者でもなくなる」を到達点とする伝統が、実はたくさんあります。

また、幸せの反対を「自我・執着」と見る伝統群(禅、シク教、浄土教など)から見ると、「何者かになりたい」という願いは、願いそのものが苦しみの根である「私が」の動きです。願いを責める必要はありません。ただ、願いを満たす以外の道が、以下のように並んでいます。

先に言っておきたいこと

「何者でもなくなる」を到達点とする伝統の言葉を、自分を小さくする道具にしないでください。禅の「自己をわするる」も、シク教のハウマイも、道家の「至誉無誉」も、徹底した修行と師と共同体のなかで語られてきた言葉で、「お前は何者でもない」という自己否定とは正反対のものです。また、願いそのものを責めないでください。アドラーが言うように、「まだ足りない」という感覚は誰にでもある正常なもので、問題は向きだけです。「何者かになりたい」という願いは、あなたに力が残っている証拠でもあります。

各思想からの答え

開花型——「何者か」を正しく読み直す

アリストテレス

アリストテレス(紀元前4世紀のギリシャの哲学者)は『ニコマコス倫理学』で「人間にとっての善とは、徳に即した魂の活動である。しかもそれは完全な生涯においてのことだ。一羽の燕が春を作らないように、一日や短い時間が人を幸福にするのではない」と述べました。エウダイモニア(よく生きている状態)は、気分でも称号でもなく、一生をかけた活動のあり方です。これを引きつけると、「何者か」は到達する肩書きではなく、毎日の活動の質だ、ということです。発揮したい徳を一つ選び、今日それを使う場面を一つ作る。それが開花型の正しい読み方です。

ポジティブ心理学1.0

セリグマン(アメリカの心理学者)が提唱したポジティブ心理学は、幸せを快い感情・没頭・関係・意味・達成の要素に分け、自分の強み(好奇心、親切、ユーモアなど)を使うことで増やせると考えました。ただし「達成」は承認のことではなく、強みは比較の道具ではありません。今のあなたに置き直すと、「何者になるか」より「どの強みを今日使うか」に問いを縮めるのです。なお、この伝統自身が、介入の効果は小さく、「幸せは自分次第」と言い切れるほどではないと認めています。伸ばすだけが幸せの道ではない、と添えておきます。

プラグマティズム

デューイ(アメリカの哲学者)は、幸せを到達すべき完成状態とは考えず、経験が絶えず成長し続ける過程そのものと見ました。『哲学の改造』には、善い人とは、どれほど不徳であったにせよ、いま善くなろうと動いている人である、という趣旨の言葉があります。「何者かになった」という到達点はそもそも存在せず、あるのは向きだけだ、ということです。今日、少しだけ経験が広がったことを一つ書く。到達ではなく成長が続いていること自体を、幸せの定義にしてみてください。

関係構成型——「何者か」は一人では決まらない

Ubuntu

南部アフリカの定型句に「人は、人々を通して人になる」とあります。Ubuntu(ズールー語などで「人であること」)では、人格は生まれつきの資格ではなく、他者との関係のなかで達成されるものです。これは「何者か」になることとは違います。認められることではなく、他者の人間性を認め、関係を厚くしていくことで、人は人になります。あなたの場面で言えば、「何者かになる」ための努力を、「今日会う一人を人として扱う」ことに置き換えるのです。あなたを人にするのは、あなたの肩書きではなく、あなたが人にした相手です。

アドラー(個人心理学)

アドラー(オーストリアの医師)は、誰もが「自分はまだ足りない」という劣等感を持ち、それを補おうとして優越へ向かう、と考えました。その努力が自分の優越だけに向かうとき、人は神経症的になります。共同体の側に向かうとき、人は健康になります。「何者かになりたい」は正常な劣等感の表れで、問題はその向きだけだ、ということです。「上に行きたい」を「誰かの役に立ちたい」に向け変える。幸せは、役に立っているという感覚にあとからついてくるものだ、というのがアドラーの構造です。

儒教(原始)

『孟子』は君子の三つの楽しみを挙げ、そこに天下の王になることは含まれない、と言います。家族が無事であること、天にも人にも恥じるところがないこと、人を育てること。儒教は、人は役割(名)のなかで自己が構成されると考えます。ここから言えるのは、「何者か」はすでに、親・子・友・同僚という役割のなかに具体的に与えられているのです。役割は檻ではなく、徳を修める場所です。その場所で楽しめているかが、儒教の物差しです。

マオリ

マオリ(ニュージーランドの先住民)には、自分の強さは一人の戦士の強さではなく多くの者の強さだ、という趣旨の諺が伝わっています。マオリの自己紹介(ペペハ)は、自分の山・川・祖先を先に述べ、自分の名前は最後に来ます。自己は関係の連なりとして語られます。今のあなたに置き直すと、「私は何者か」という問いを「私はどこから来て、誰とつながっているか」に書き換えてみる、ということです。達成は個人ではなく集団に帰属する、という見方は、一人で何者かになろうとする重さを下ろしてくれます。

認識転換型——「何者でもない」が到達点

禅

道元(13世紀の僧。曹洞宗の開祖)は『正法眼蔵』「現成公案」で「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」と書きました。自己を確立するのではなく忘れる。そのとき世界の側から自己が証される。臨済は、何も外に求めない人を「無事の人」と呼び、求める心そのものを病と見ました。「何者か」を外に探しに行く動きを止めたとき、今ここの一動作がすでに答えだった、と気づく道があるのです。ただし「努力しなくていい」ではなく、徹底的に問い詰めた末の地点です。

道家(老荘)

『老子』第44章に「名と身と孰れか親しき。身と貨と孰れか多き。…足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うからず」とあります。名声と身体と、どちらが大切か、という問いです。『荘子』は「至誉は誉れ無し」、至上の名誉とは名誉を追わないことだ、と言います。あなたの場面で言えば、「何者か」という名は人間の視点が作った区別にすぎず、それを追うほど身を損なう、ということです。無為は何もしないことではなく、作為をやめることです。「うまくやろう」という力みに気づいたら手を止め、勝手に進む部分に任せてみてください。

シク教

シク教(インド北西部でグル・ナーナクが開いた宗教)は、苦しみの根をハウマイ(「私が私である」という自我意識)に置きます。聖典『グル・グラント・サーヒブ』は、自我を長患いの病と呼びつつ、その薬もまた自我のなかにある、と述べます。出家して世を捨てるのでも快楽を追うのでもなく、家庭を持ち、正直に働き、稼ぎを分かち合いながら神の名を唱えることが道で、そのとき力みのない均衡(サハジ)が訪れます。「何者か」になろうとする「私が、私が」の動きを、働く・分かち合う・思い出すの三本柱に溶かしていくのです。

副産物型——なりたい自分を目標にしない

ニーチェ

ニーチェ(19世紀ドイツの哲学者)は、安楽や満足としての幸福を「最後の人間」の理想と呼んで軽蔑し、幸福とは力が増大している感覚、抵抗が克服されつつある感覚だと言い換えました。ニーチェにとって自己は与えられるものではなく、自分で造形していくものです。ここから言えるのは、「何者か」は他人の承認で測るものではなく、昨日の自分より抵抗を一つ越えたかで測るものだ、ということです。ただしニーチェは読者を守る仕組みを持たない思想家です。「力」を他人への支配と読まないでください。

ユング(分析心理学)

ユング(スイスの精神科医)は、個性化を「分割できないもの」になること、自分自身の自己になることと定義しました。目標は幸福でも成功でもなく、影(自分が認めたくない側面)を含めた全体として、自分自身になることです。ペルソナ(社会に向けた仮面)と自分を同一視することが妨げです。今のあなたに置き直すと、「何者か」になりたい願いが、仮面を厚くしたい願いになっていないかを見るのです。自分が強く嫌う他人の性質を一つ挙げ、それが自分の中にもないかを眺める。個性化はそこから始まります。

実存主義

サルトル(フランスの哲学者)は、実存は本質に先立つ、と言いました。人間にはあらかじめ決まった本質も意味もなく、「何者であるか」は選択の積み重ねによって事後的に形づくられます。ハイデガーは、誰でもない匿名の平均的な生き方を「世人(ひと)」と呼びました。「何者かになりたい」の「何者か」が世人の基準で作られているなら、それはあなたの自由から逃げる形になっている、ということです。不安は自由の裏返しです。小さな選択を一つ、他人の基準ではなく自分の名前で引き受けてみてください。

贈与・応答型——すでに受け取っている名

仏教(浄土)

浄土教(阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称える仏教の流れ)では、人は自分の力で立派になれない凡夫(ぼんぶ。欲や怒りを断てない普通の人)であり、そのままで救われています。悪人正機(あくにんしょうき)は、努力の多寡と救いを切り離します。妙好人(篤い信仰を持った在家の信者)の伝統は、農民や職人が日常語でこの安心を語った記録です。あなたの場面で言えば、何者かにならなくても、すでに受け取っているものがあるのです。「何者かにならなければ」という自力の疲れをいったん置いて、先に受け取り、努力はお礼として後からついてきます。

仏教(日蓮)

日蓮(鎌倉時代の僧)は佐渡流罪中の『開目抄』で、自分が日本の柱となり、眼目となり、大船となろう、と誓いました。これは「何者かになりたい」の最も強い形に見えますが、中身は自分の名を上げる願いではなく、正しい教えを立てて国土と社会を安らかにする(立正安国)という方向への願いです。日蓮では、自己は「法華経の行者」という役割によって定められます。「何者か」を自分の承認ではなく、信じる価値を目に見える行動一つに変えることで定義し直す、ということです。祈りと行動を分けない構えです。

今日からできる三つのこと

試すなら、この中から一つ。伝統の実践(瞑想・行・祈り)の代わりではなく、考え方に触れるための小さな入口です。

  1. 「何者かになりたい」の「何者か」を一行で書き、その判定者が誰かを横に書く。判定者が自分でなければ、問いを「誰の役に立ちたいか」に書き換える(アドラー(個人心理学))
  2. 自分の山・川・祖先・つながりを先に述べて、名前を最後に言う自己紹介を一度、紙の上で作ってみる(マオリ)
  3. 発揮したい徳(正直・勇気・親切・粘り強さ)を一つ選び、今日それを使う場面を一つ作る。誰にも見られなくてよい(アリストテレス)

こういうときは専門家へ

焦りで眠れない、休日も「何かしなければ」と落ち着かない、過活動の時期と何もできない時期の波が大きい、借金をしてでも何者かになろうとしてしまう、SNSの反応で一日の気分が決まる——こうした状態が続くなら、構えの問題ではなく、医療や相談の対象です。心療内科・精神科、または各都道府県の精神保健福祉センターに相談できます。電話では、こころの健康相談統一ダイヤル(0570-064-556)、よりそいホットライン(0120-279-338。24時間)があります。仕事や進路の迷いが中心なら、ハローワークや地域若者サポートステーション、ジョブカフェに無料のキャリア相談があります。消えてしまいたいという思いが出てきたら、いのちの電話や#いのちSOS(0120-061-338)につないでください。

つらさが強いとき・「消えてしまいたい」と感じるときは、どうかひとりで抱えないでください。まもろうよ こころ(電話・SNSの相談窓口一覧)/よりそいホットライン 0120-279-338(24時間・通話無料)。
ひとこと何者かになる前に、あなたはもう誰かを人にしている。

この悩みを含む30の悩みは、PDFでも読めます:各思想からの悩み相談30(PDF)

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