生死事大 無常迅速
生きて死ぬという一大事を前にして、時は矢のように過ぎていく。ぐずぐずしている暇はない。
出典の物語
禅のお寺の廊下には、「木版(もっぱん)」と呼ばれる板が掛かっていて、時刻を知らせるときに木槌で打つ。その板には、たいていこんな言葉が刻まれている。「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸」。意味は、「生きて死ぬことは一大事である。時はあっという間に過ぎていく。それぞれ目を覚ましていなさい。決して怠けてはならない」。修行僧は一日に何度もこの板を打ち、その音とともに、この言葉を自分の心に打ち込む。言葉のもとは『六祖壇経(ろくそだんきょう)』という本で、ある若い修行者が六祖慧能(えのう)という高僧の前で、礼儀を省いて用件を切り出した場面に出てくる。「なぜそんなに無作法なのか」と問われた若者は、「生きるか死ぬかの一大事、時は矢のように過ぎます。礼儀をしている暇はありません」と答えた。慧能はその真剣さを認めて、彼を導いたという。
出典:『六祖壇経』行由品/禅寺の木版(もっぱん)に刻まれる偈
ウェルビーイング研究とのつながり
「残り時間が限られている」と意識すると、人は目先の情報収集より、親しい人との時間や今の体験を優先するようになる。これは社会情動的選択性理論として、高齢者研究から確立された(Carstensen, Isaacowitz & Charles, 1999)。さらに、「この街で過ごせる時間はあと少し」と想像するだけで、日常の活動への満足と幸福感が高まるという実験もある(Kurtz, 2008; Layous et al., 2018)。木版の「無常迅速」は、この効果を毎日自分に与える仕掛けだと言える。
現代の暮らし・仕事への示唆
死を遠ざけた社会に生きていると、時間はいくらでもあるように錯覚する。しかし「いつかやろう」の「いつか」は多くの場合やって来ない。終末期医療の現場で語られる後悔の多くは「もっと自分らしく生きればよかった」「大切な人ともっと過ごせばよかった」といった、先送りの後悔である。無常迅速は、人を脅すための言葉ではなく、有限であるからこそ今日が貴いという感覚を取り戻すための言葉だ。自分の木版の音を、何にするか。
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