幸せの禅語百選

吾心似秋月

わがこころしゅうげつににたり

私の心は秋の月のよう。澄み切った淵のように清らかで、比べられるものが何もない。

出典の物語

唐の時代の、寒山(かんざん)という風変わりな詩人の詩である。「私の心は、秋の月のようだ。青く深い淵(ふち)の水のように、澄んで、白く輝いている。これに比べられるものは何もない。どう説明しろというのか」。寒山は天台山の岩屋に住み、拾得(じっとく)という友人と一緒に、お寺の残りものを食べて暮らしたと伝えられる。ぼろを着て、奇妙なふるまいをしたが、その詩は深い悟りを表すものとして、禅のお寺で愛読された。日本でも「寒山拾得」は絵の題材として好まれ、森鷗外も小説に書いている。この詩の「秋の月」は、雲一つない秋の夜空に冴える月で、一点の曇りもない心のたとえ。「青い淵」はその月を映す深い水で、動かない澄んだ心のたとえ。寒山は自分の心をこう詠んだあとで、「でもこれは、たとえにすぎない。本当は何にもたとえられない。どう説明すればいいのか」と嘆く。説明できないものを説明しようとする詩人の正直さが、かえって心の澄みきった感じを伝えている。

吾が心秋月に似たり、碧潭清くして皎潔たり。物の比倫に堪うる無し、我をして如何が説かしめん(寒山詩)

出典:寒山『寒山詩』

ウェルビーイング研究とのつながり

感情の波に巻き込まれず、浮かんでは消える思考を少し離れて眺める「脱中心化」の能力は、マインドフルネス実践によって高まり、抑うつの再発を防ぐ要因であることが示されている(Fresco et al., 2007; Teasdale et al., 2002)。また、快不快の刺激に対して過剰に反応しない心の安定(平静さ、エクアニミティ)は、瞑想の効果を説明する中心的な概念として研究されている(Desbordes et al., 2015)。「秋の月のような心」は、この脱中心化と平静さの、詩による表現である。

現代の暮らし・仕事への示唆

心が騒がしいとき、私たちは心を「静めよう」とする。しかし波を手で押さえても水は静まらない。寒山の詩は、静まった心がどのようなものかを一枚の風景として見せる。秋の月と、それを映す淵。何もしていないのに、ただ澄んでいる。マインドフルネスの実践では「心を空にする」のではなく、心を澄んだ水面のように保ち、浮かぶ思考を雲のように眺めることが勧められる。騒がしい一日の終わりに、この詩を一行唱えてみる。心は月に似ていると思うだけで、ほんの少し、水面が静まることがある。

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