隻手音声
「両手を打てば音がする。では片手の音を聞いてみよ」。白隠が創案した、日本禅を代表する公案。
出典の物語
江戸時代の中ごろの白隠(はくいん)というお坊さんが作った問題である。「両手を打ち合わせれば音がする。では、片手には、どんな音があるか」。白隠は、それまで初心者に与えられていた趙州の「無」の問題に代えて、この「片手の音」を入門の問題にした。白隠は本の中で、「『無』は昔からの問題だが、みんな知識として知りすぎていて、本気の疑いを起こしにくい。それに比べて片手の音は、疑いを起こさせる力が十倍ある」と述べている。片手の音。物理的には音はしない。しかし「音がしない」という答えでは通れない。「無音」という理屈で答えても通れない。片手を差し出すしぐさでも、黙り込んでも、師匠は簡単には認めない。この問題のねらいは、「音」という考え、「聞く」という分け方が成り立つ前のところへ、修行者を追い込むことである。両手が打ち合わされて初めて音がするように、自分と他人、見る側と見られる側が二つに分かれて初めて、世界は認識される。片手の音は、その分かれる前を問う。白隠はこの問題で多くの弟子を育て、今の臨済宗の修行の体系は、ほぼ白隠の系統に属する。日本で作られた問題として、世界でいちばんよく知られた禅の問いである。
出典:白隠慧鶴の公案(『藪柑子』『遠羅天釜』ほか)
ウェルビーイング研究とのつながり
公案、とくに「隻手の音声」のような問いの実践そのものを対象にしたウェルビーイング研究は、ほとんど見当たらない。禅の瞑想者を対象にした脳の研究はあるが(Pagnoni, 2012)、公案の効果を分けて調べたものではない。関連する知見としては、答えの出ない状況に耐える「曖昧さへの耐性」が創造性や適応と関連すること(Furnham & Marks, 2013)、知的な謙虚さが学習と判断を支えること(Leary et al., 2017)が挙げられる。片手の音と向き合う修行は、この耐性を鍛える極端な形と見なせるが、それを検証した研究は今後の課題である。
現代の暮らし・仕事への示唆
答えのある問いにばかり取り組んでいると、答えのない問いに出会ったとき立ちすくむ。しかし人生の本質的な問いは、たいてい片手の音のようなものだ。「なぜ生きるのか」「この人を愛しているのか」「自分の仕事に意味はあるのか」。理屈で答えても透れないし、「分からない」と投げ出しても透れない。白隠は、その問いの前に居続けることが、人を変えると見抜いていた。隻手の音声は、禅堂の外でも有効な問いである。ときどき、片手を見つめてみる。音は、聞こえるか。
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