麻三斤
「仏とは何か」と問われて洞山が答えた「麻が三斤」。意味を探ろうとするあらゆる思考を拒む、禅問答の典型。
出典の物語
ある僧が、洞山(とうざん)というお坊さんに尋ねた。「仏とは何ですか」。洞山は答えた。「麻が三斤(約二キログラム)」。それだけである。洞山はこのとき倉庫で麻の重さを量っていた、という説もあるが、確かではない。問題集『無門関』に収めた無門は、こう書いている。「洞山じいさんは、はまぐりの禅を学んだようなもので、ちょっと口を開けば、はらわたが丸見えだ。それにしても、どこに洞山を見るか」。そして詩を添えた。「麻三斤、と突き出した。言葉は親しく、心はもっと親しい。これについて正しいとか間違いだとか論じに来る人は、その人自身が正しい・間違いにとらわれた人だ」。『碧巌録』でも同じ問答が取り上げられ、解説した圜悟は、「仏はあらゆるものに宿るから麻も仏だ」とか、「洞山はたまたま麻を量っていただけだ」とか、あれこれ意味づけする人を、ことごとく退けている。「麻三斤」は、たとえでも、象徴でも、なぞなぞでもない。「仏とは何か」という問いに対して、意味の世界の外から、ただ「麻三斤」と突き出された。この答えに意味を与えようとすると、必ず外れる。意味を探す心が止んだとき、麻三斤はそのまま麻三斤として、この上なく親しく立ち現れる。
出典:『無門関』第十八則「洞山三斤」/『碧巌録』第十二則
ウェルビーイング研究とのつながり
体験を言葉で分析しすぎると、体験そのものの質や判断の精度が落ちることが示されている。ジャムやポスターを選ぶ際に理由を言語化させられた人は、言語化しなかった人より、後になってその選択に不満を持ちやすかった(Wilson & Schooler, 1991)。また、見た顔を言葉で描写すると、かえってその顔を正しく思い出せなくなる「言語隠蔽効果」も知られている(Schooler & Engstler-Schooler, 1990)。「麻三斤」が意味づけを拒むのは、言葉による過剰な分析が体験を損なうという、これらの知見と対応している。
現代の暮らし・仕事への示唆
「それはどういう意味ですか」と問わずにいられないのが、知的な人間の性である。しかし世界には、意味を問うことで見失われるものがある。子どもの笑い声、雨の音、湯気の立つ飯。意味を剥がして、ただそれとして受け取ったとき、初めてその親しさが届く。心理学でも、体験を言語化・分析しすぎると、体験そのものの豊かさが損なわれることが指摘されている。麻三斤は、意味づけの手前で立ち止まる訓練である。目の前のものを、意味ではなく、重さとして感じる。麻が三斤。それ以上でも、以下でもない。
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