幸せの禅語百選

第2章 手放す ・ 28 / 100

遊戯三昧

ゆげざんまい

何ものにもとらわれず、遊ぶように自在に、しかも一心に生きる境地。悟りの後の、自由な日常のあり方。

出典の物語

「遊戯(ゆげ)」は仏教の言葉で、仏や菩薩が自由自在に力を発揮して人々を導くことをいう。「三昧(さんまい)」は、心が一つのことに定まって散らばらない状態。この二つを合わせた「遊戯三昧」は、何にもとらわれず、遊ぶように自由に、しかも全身全霊で、という禅ならではの境地を表す。問題集『無門関』の第一問の解説で、無門は「無」の一字を通り抜けた人の姿をこう描いている。「関羽将軍の大刀を奪い取って手にし、仏に会えば仏を殺し、祖師に会えば祖師を殺し、生死の境でも大自在を得て、迷いの世界のただ中で遊戯三昧に生きる」。悟りの境地とは、世の中を離れて静かに暮らすことではなく、迷いの世界の真ん中を、遊ぶように自由に行き来することである。十枚の絵で修行を描いた『十牛図(じゅうぎゅうず)』の最後の絵でも、悟った人は布袋さんのような姿で町に出て、人々と交わっている。遊びには目的がない。それ自体で完結している。生きることがそのまま遊びになるとき、人はいちばん真剣で、いちばん自由である。

六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん(『無門関』第一則 評唱)

出典:『無門関』第一則 評唱ほか/『法華経』「遊戯神通」

ウェルビーイング研究とのつながり

報酬や評価のためではなく、活動それ自体の面白さから行動する「内発的動機づけ」は、幸福感、創造性、持続性のいずれにおいても、外からの報酬による動機づけを上回る(Ryan & Deci, 2000)。外から報酬を与えると、もともと楽しんでいた活動への興味がかえって下がるという古典的な実験もある(Deci, 1971)。「遊ぶように、しかし全身全霊で」という遊戯三昧は、内発的動機づけの純粋な形である。

現代の暮らし・仕事への示唆

仕事と遊びを分け、「遊ぶために働く」と考えると、人生の大半が手段になってしまう。遊戯三昧は、仕事そのものを遊びのように、しかも三昧(没頭)して行う在り方を指す。子どもが砂場で遊ぶとき、報酬も評価も関係なく、ただ没頭している。研究でいう内発的動機づけの純粋な形である。大人にも、仕事の中に「これは面白い」と思える瞬間は必ずある。そこを起点に広げていくと、義務が遊びに転じることがある。真面目であることと、遊ぶことは矛盾しない。

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禅語の出典・読み・解釈には諸説があります。本百選は通行の解釈に従っていますが、茶会の軸や講話など正式な場で用いる際は、原典や専門書(『禅語辞典』『茶席の禅語大辞典』など)でご確認ください。研究とのつながりは、禅語の主題に対応する心理学・幸福研究の知見を示したもので、禅語そのものの効果を実証したものではありません。 読み物版:PDF(127P) / 一覧:Excel(100語・引用研究つき)
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