道家(老荘)
作為(人為的な計らい)を捨て、万物の自ずからなる働き(無為自然)に身を委ねた、無心で自在な遊び(逍遥遊)
わざとらしい努力や目的意識を捨て、川の流れに身を任せるように、ものごとが自ずからそうなる働きに従って生きる。大小・善悪・損得といった区別は人間の視点が勝手に作ったものだと見抜き、目的のない遊びのように生きることを理想とする。「至上の楽しみとは、楽しみを追わないことだ」という逆説がその核心。
紀元前4世紀ごろの中国の『老子』と『荘子』を中心とする思想。人為的な作為を捨てて自然の働きに従う「無為自然」を説き、儒教の道徳主義を批判した。宗教としての「道教」とは区別される(英語ではどちらもTaoismで混同されやすい)。禅や日本の美意識にも深い影響を与えた。
どれくらいの人が信じているか、学んでいるか
「道家」としての信者という概念は存在しません。テクストの思想としての影響圏は東アジア全域です。規模の区分は「×(信者概念が成立しない)」です。
注意点として、道家(哲学)と道教(宗教)を、英語の Taoism/Daoism が区別しません。そのため二次文献を経由して人数の情報を取ると混線します。両者は別のものとして扱っています。
道家(どうか。紀元前4世紀ごろの中国の『老子』と『荘子』を中心とする思想。老荘思想とも呼ばれます)が言う幸せの中心にある言葉は、無為(むい。中国語でwúwéi)です。直訳は「なすこと無し」ですが、実質は、作為的・目的意識的な介入をしない仕方で行為することです。「無為にして為さざるは無し」(何もしないようでいて、すべてが成し遂げられる)という言葉があります。もう一つが自然(じねん。zìrán)です。「自ずから然(しか)り」、つまり「ひとりでにそうなる」という意味で、近代語の nature(自然界)とは別の言葉です。
ほかに逍遥遊(しょうようゆう。ぶらぶらと遊ぶこと)、至楽(しらく。『荘子』至楽篇は「至楽は楽無し」〈至上の楽しみとは、楽しみを追わないことだ〉と逆説的に定義します)、安時処順(あんじしょじゅん。その時その状況に安んじること)、懸解(けんかい。吊るされた状態から解かれること)、知足(ちそく。足るを知ること)、虚(きょ。心を空にすること)、遊(ゆう)といった言葉があります。
この思想では、善い生き方は何かを獲得したり達成したりすることではありません。人為的な区別と目的意識から解放されて、万物のひとりでにそうなる働き(自然)に即して生きることです。『老子』(ろうし。道家の根本経典。伝説上の作者は老子)は、道(タオ。万物を生み出す根本の働き。人格神ではありません)が万物を生じさせるのは意図によってではなく、ひとりでにそうであるためだとします。そして人もまた知足・柔弱・不争・寡欲(欲を少なくすること)によって作為を減らすべきだと説きます。
『荘子』(そうし。戦国時代の思想家、荘周の名を冠した書)ではこれがさらに徹底されます。大小・貴賤・是非といった価値の区別そのものが、人間の視点に依存する仮構として相対化されます(斉物論〈せいぶつろん〉。万物を等しいものと見る議論)。したがって至上の楽は、通常の意味での楽の追求をやめたところに現れます(至楽無楽)。生死さえも気(き。万物を構成するエネルギー)の変化として受け取られ、変化に抗わない構えが幸福の条件となります。理想像は、目的のない遊び(逍遥遊)です。また庖丁(ほうてい。料理人の名)のように、技が意識を離れて事物の理に従う無心の状態です。
一言でいえば、わざとらしい努力や目的意識を捨て、川の流れに身を任せるように、ものごとがひとりでにそうなる働きに従って生きる、という幸せです。大小・善悪・損得といった区別は人間の視点が勝手に作ったものだと見抜き、目的のない遊びのように生きることを理想とします。
幸せを妨げるもの
幸せを妨げるものは、まず作為・人為(偽。わざとらしさ)です。次に知(分別知〈ふんべつち。区別する知〉や巧智〈こうち。小賢しい知恵〉)です。名声と利得への執着、是非の争い(儒家と墨家〈ぼくか。兼愛を説いた学派〉の是非論争そのものが病とされます)、成心(せいしん。できあがった先入見)、外のものによる自己の疎外、寿命や生死への恐怖、過剰な欲望(『老子』12章)も妨げです。
この思想で幸せの反対にあたるのは、不自由・作為です。具体的には作為(偽)、分別知、外物への従属です。
瞑想・観想身体技法
『荘子』側の実践には、坐忘(ざぼう。大宗師〈だいそうし〉篇に「肢体を堕(お)とし、聡明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去りて、大通に同ず」とあります。体の感覚も知識も忘れて、大いなる道と一つになる境地)、心斎(しんさい。人間世〈じんかんせい〉篇に「ただ道は虚に集まる。虚とは心斎なり」とあります。心を空にすること)、喪我(そうが。斉物論篇の「吾(われ)、我を喪(うしな)えり」。自分という意識を失うこと)があります。さらに技の熟達による無心があります。庖丁解牛(ほうていかいぎゅう。料理人が無心で牛を解体する話)、輪扁(りんぺん。車輪づくりの名人)、佝僂者承蜩(こうろうしゃしょうちょう。背中の曲がった老人が蝉を捕る話)といった逸話です。技術的な熟練が悟りのモデルとなる点は、東アジア的だとされます。
『老子』側の実践は、損之又損(そんしゆうそん。48章。減らしてまた減らすこと)、致虚極守静篤(ちきょきょくしゅせいとく。16章。虚を極め、静を守ること)、守柔(しゅうじゅう。柔らかさを守ること)、不争(ふそう。争わないこと)です。
幸せはどこで実現するのでしょうか。第一には宇宙・自然、つまり道と一体化した地平です。次いで個人の内面(虚・無心)です。関係性は積極的な価値ではなく、むしろ社会的な関係から距離を置くことが条件です。超越者は不在で、道は人格神ではありません。
いつ実現するのでしょうか。今ここが圧倒的です。安時処順、つまりその時その状況に安んじることです。来世はなく、死は変化の一局面です。子孫や世代の軸は、儒家と対照的に薄いです。実践の形は瞑想・観想と身体技法です。全体としては、目的論を持たず作為を脱する「非目的論・脱作為モデル」(プロセス的ウェルビーイング)と整理できます。
「私」と世界の境目
道家の自己は、脱中心化された自己です。「吾、我を喪えり」(斉物論)という言葉や、胡蝶の夢(こちょうのゆめ。荘子が蝶になった夢を見て、自分が蝶の夢を見たのか、蝶が自分の夢を見ているのか分からなくなった話)における自他の境界の流動化がそれを示します。身体は「形」として気の一時的な凝集であり、生死は気の聚散(しゅうさん。集まったり散ったりすること)です。自己は万物と連続しています。
ただし『老子』は統治者の自己(聖人)を保持する点で、『荘子』内篇より自己の解体の度合いが低いです。
「私」と世界の境目については、非二元型(自己の境界を解除する型)に分類されます。「吾喪我」、胡蝶の夢、物化(ぶっか。ものへと変化していくこと)によって、主体と客体の区別が視点に依存する仮構として相対化されます。東アジアの思想のなかで最も徹底しています。
境遇(運)と、努力か贈与か
境遇(運)との関係は、独立です。運・不運という区別そのものを相対化するからです。
幸せは努力で得るのか、贈られるのかについては、どちらでもありません。「獲得」という枠組み自体を解体するからです。損之又損、つまり減らしていく道です。整理すると、境遇は「独立」、努力か贈与かは「なし」となります。
苦しみの位置
苦しみは価値判断の産物として相対化されます。妻の死に際して盆(ぼん。鉢)を叩いて歌ったという荘子の逸話(鼓盆而歌〈こぼんじか〉)があります。これは悲しみの否認ではなく、変化に抗わない構えを示すものです。苦しみに積極的な意味を与えるのでもなく、除去の対象にするのでもなく、苦しみを苦しみとして区別する視点そのものを解いていく、という位置づけです。
目盛りの定義は 17のマップ の各「目盛りの定義」を参照。
ヘドニア/エウダイモニア、三分類の枠組み
ヘドニア(快と満足としての幸福)とエウダイモニア(人間としての機能の発揮としての幸福)という枠組みで見ると、道家はどちらにも収まりません。この点が道家の特徴で、比較のうえで最も注意を要します。エウダイモニア、つまり徳の完成という目的論を明示的に拒否します(「仁義を絶て」)。同時に、快の追求も否定します(至楽無楽)。むしろアタラクシア(ataraxia。心が動揺しないこと)や無努力(non-striving)という軸を立てるべきだとされます。
フロー(flow。チクセントミハイ〈Csikszentmihalyi。心理学者〉が提唱した、活動に没頭した状態)との類比が、庖丁解牛を通じてしばしば行われます。しかしフローは課題達成への志向を前提とする点で、完全には重なりません。この類比には批判もあります。
快楽説/欲求充足説/客観的リスト説という枠組みでは、枠外です。快楽説と欲求充足説はともに否定されます。客観的リスト説も、「善いもののリスト」という発想そのものが分別知として退けられます。
前野4因子との相性(やってみよう=× ありがとう=△ なんとかなる=○ ありのままに=◎)
前野隆司(幸福学を研究する日本の研究者)の4因子との相性は次のとおりです。
ありのままに(独立と自分らしさ)=◎(とても合う)。道家の中核そのものだからです。
なんとかなる(前向きと楽観)=○(合う)。安時処順という構えがあるからです。ただしこれは運命の受容であって、楽観ではありません。
やってみよう(自己実現と成長)=×(合わない)。作為を否定するからです。
ありがとう(つながりと感謝)=△(あまり合わない)。
生きとし生けるものの幸せ(○ 含むが、人間との差はある)
生きとし生けるものへの配慮は、○(願うより妨げない)です。万物斉同(ばんぶつせいどう。すべてのものは等しい)という考えがあります。濠梁の辯(ごうりょうのべん。荘子と恵子〈けいし。論理学者〉が川の橋の上で「魚の楽しみ」が分かるかどうかを論じた話)では、魚の楽しみを認めます。ただし「天地は不仁」(『老子』5章。天地は特定の誰かを愛するわけではない)とされ、万物の幸せを「願う」という能動的な構えは薄いです。作為をやめて万物のひとりでの働きに任せることが、配慮の形です。
研究でどこまで確かめられているか
研究による裏づけの程度は「少」で、類比にとどまります。
①フロー研究との類比があります(庖丁解牛)。ただしフローは明確な目標とフィードバックを前提としますが、道家の無心は目的性の解除を含みます。構造的な差異があります。
②低覚醒ポジティブ感情の選好の研究があります。Tsai(ツァイ。2007年、Perspectives on Psychological Science 誌)の理想感情(ideal affect。人が理想とする感情の状態)研究です。東アジア文化圏では、穏やか・平和といった低覚醒ポジティブ感情(LAP)が理想の感情として選ばれやすいとされます。Tsai 自身が道家・仏教の影響仮説に言及していますが、因果関係は検証されていません。
③受容(acceptance)に基づく臨床介入、たとえばACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)との構造的な類似があります。
いずれも道家そのものを対象にした研究ではなく、世俗化された概念や現代の心理傾向との類比です。
どこから来て、どこへ流れたか
道家が受け継いだものは、戦国時代の諸子百家(しょしひゃっか。多くの思想家たち)の議論です。とくに儒家・墨家への批判として生まれました。
そこから流れ出たものは、道教(道家を経典化し、老子を神格化した宗教)、禅(無為・自然という語彙)、新儒教(宇宙論)、日本の美意識、そして20世紀の西洋思想です。ハイデガー(ドイツの哲学者)、ユング(スイスの心理学者)、ケージ(アメリカの作曲家)、エコロジー思想などが挙げられます。ただし西洋への影響については、アナクロニズム(時代錯誤。後代の考えを過去に読み込むこと)だという批判があります。
発達段階論から見ると
キーガン(成人の心の発達段階を研究した心理学者)の段階論で見ると、価値判断の相対化(斉物論)と自己の脱中心化(吾喪我)は、段階5(自分の枠組みを相対化できる自己)の上位というより、段階の軸の外にある視座主義(ものの見方はすべて立場に依存するという考え)です。
しかも「発達によって上る」という図式を、「損之又損(減らしていく)」に置き換えており、段階論の方向とは逆です。適用にあたっては「上昇ではなく解除」であることを明記すべきだとされます。
「器」(実践を運営する自己のあり方)と「目標」(目指す自己のあり方)を区別すると、器は「−(該当なし)」、目標は「解(解除)」と整理されます。なお、高い段階ほど良いという読み方はしないでください。
現代の言葉に翻訳すると、【副産物として待つ/取り除く】型の設計になります。「無為」、つまり介入しないことを介入とする設計です。
マイクロマネジメント(細かい管理)の解除、目的意識の一時停止、「至楽無楽(楽しみを追わないことが至上の楽しみ)」という構えです。フローとの類比は有用ですが、フローが課題達成を前提とする点で違います。受容に基づく介入(ACT)と構造的に近いです。
安全装置明示的な安全装置を欠く教義上の警告(魔境・慢心・偽の悟り)
安全装置のタグは「無・警」です。無(制度的な安全装置がないこと)、警(危険への警戒)を意味します。
道家は制度的な安全装置を意図的に持ちません。荘子は「無用の用(むようのよう。役に立たないものの役立ち)」と道の遊びを説きますが、実践の危険を管理する仕組みはありません。それは後の道教(房中術〈ぼうちゅうじゅつ。性の技法〉や服薬)が引き受けました。教義のうえでは「知を捨てる」ことが、逆説的な安全装置とされています。
誤解されやすい点
誤解されやすい点は五つあります。
①「無為」は「何もしない」ことではありません。"non-action" という定訳は誤解を招きます。"effortless action"(努力なき行為)や "non-coercive action"(強制しない行為)という訳語が、Ames や Slingerland といった研究者から提案されています。
②「自然(じねん)」は nature(自然界)ではありません。zìrán は「自ずから然り」という副詞的・様態的な概念です。日本語話者に最も誤読されやすい点です。
③道家をエコロジー思想とする現代的な読みは、アナクロニズムの危険があります(論争あり)。
④『荘子』の相対主義を「何でもあり」と読むのは誤りです。
⑤「至楽無楽」を「幸福は存在しない」と読むのは誤読です。
学者の間で議論があること
学者の間で議論があることは五つあります。
①『老子』と『荘子』を一つの「道家」としてくくれるかという問題です。近年の研究は、両者の関心(統治術と、個人の境地)の差を強調し、「老荘」というひとまとめを前漢以降の歴史的な構築物と見ます。なお「道家」という学派名自体、前漢の司馬談(しばたん。歴史家)による後づけの分類です。
②『荘子』の内篇と外篇・雑篇の違いです。外篇・雑篇には無君派(君主を否定する立場)や黄老派(こうろうは。黄帝と老子を掲げる政治思想)が混在し、幸福観も分かれます。
③道家と道教の連続性です。
④「無為」の政治的な読みです。統治術としての無為か、個人の生き方としての無為か、という問題です。
⑤「斉物論」の解釈です。懐疑主義・相対主義・視座主義・神秘主義のどれなのか、Graham、Hansen、Ivanhoe、Fraser といった研究者で見解が分かれます。
こんなときに:頑張るほど空回りするとき。計画や作為を手放して、流れに乗ることを試したい人に。
小さな入口:何かを「うまくやろう」とする力みに気づいたら、いったん手を止め、勝手に進む部分に任せてみる。無為は怠けではなく介入をやめること。
この思想が出てくる悩み:「手に入れても、すぐ次が欲しくなって落ち着かない」「努力しても報われない。頑張るほど空回りする」「「自分」というものが重くて息苦しい。自分から解放されたい」
判定が近い思想:禅・ヒンドゥー(ヴェーダーンタ)・スーフィズム → 思想の近さマップ
道は常に無為にして、而も為さざるは無し。
作為を加えないのに、すべてが成る。「無為」は何もしないことではなく、自ずからなる働き(自然)に任せて行うこと(第25章「道法自然」)。
名と身と孰れか親しき。身と貨と孰れか多き。…足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うからず、以て長久なるべし。
名声と財への執着が身を損なう。「知足」「知止」——欲を減らすことが安らぎと長久の条件だという、老子の幸福を妨げるものの診断。
至楽は楽無く、至誉は誉れ無し。
至上の楽しみとは楽しみを追わないこと。快楽の追求も徳の達成も目的にしない、道家の幸福観を一行で言い切る逆説。
時に安んじて順に処れば、哀楽も入ること能わず。古はこれを帝の懸解と謂う。
生も死も「時」と「順」として受け取れば、悲しみも喜びも心を縛れない。逆さ吊りから解かれるような自由(懸解)が苦への構え。
荘子曰く、鯈魚出で遊びて従容たり、是れ魚の楽しみなり。恵子曰く、子は魚に非ず、安んぞ魚の楽しみを知らん。
橋の上で魚の楽しみを語る荘子。人以外の生きものにも「楽」を認め、それを知りうるかを問う——生きとし生けるものの幸せへの道家の視線。
主な典拠:『老子』第25章「人法地、地法天、天法道、道法自然」/第37章「道常無為而無不為」/第48章「為学日益、為道日損」/第33章「知足者富」/第44章/『荘子』逍遥遊第一(「至人無己、神人無功、聖人無名」)/斉物論第二(「吾喪我」、胡蝶の夢)/養生主第三(庖丁解牛)/人間世第四(心斎)/大宗師第六(坐忘、「安時而処順、哀楽不能入也」)/秋水第十七(濠梁之辯)/至楽第十八(「至楽無楽」、鼓盆而歌)
参考文献:Ames, R. T. & Nakajima, T. (eds.) (2015) Zhuangzi and the Happy Fish, Univ. of Hawai'i Press(濠梁之辯=「魚の楽しみ」論争を主題化)/Fraser, C. Xunzi Versus Zhuangzi: Two Approaches to Death in Classical Chinese Thought/Robinet, I. (1997) Taoism: Growth of a Religion, Stanford UP/Sivin, N. (1978) On the Word 'Taoist' as a Source of Perplexity, History of Religions
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