カント
幸福は人生の目的ではなく、道徳的に正しく生きて幸福に値する者になることこそ、人間に課された課題
幸せを否定したわけではないが、「幸せになるために道徳的であれ」という順序を拒否した。人が目指すべきは幸せそのものではなく、「幸せに値する人間であること」。道徳と幸せが一致するのはこの世では保証されないので、その一致は神と魂の不死を前提にしてはじめて考えられる、とした。人間の「尊厳」という考えの源流。
18世紀ドイツの哲学者。『純粋理性批判』などで近代哲学を確立した。倫理においては「幸福のために善をなす」という順序を否定し、無条件に正しい行いを説いた。「人間の尊厳」や「自律」といった、現代の人権思想の基礎概念の多くが彼に由来する。幸福論としては異例だが、幸福を目標にすることへの最も強力な批判として欠かせない。
どれくらいの人が信じているか、学んでいるか
思想なので、信者数というものは存在しません。影響圏の代理指標として、世界人権宣言、医療倫理のインフォームド・コンセント、障害者権利条約における「固有の尊厳」がカント的な系譜をもつことが挙げられます。
制度的な影響の深さでは、近代思想の中で最大級です。人数ではなく、法制度への埋め込みで記述すべき思想です。
カント(イマヌエル・カント。1724〜1804年。ドイツのケーニヒスベルクで活動した哲学者)が「幸福」に使う中心の言葉は、Glückseligkeit(グリュックゼーリヒカイト。幸福・至福)です。カントの定義では、これは「傾向性(Neigung〔ナイグング〕。欲求や好みなど、感性から生じる心の傾き)のすべての充足の総体」です。つまり、あらゆる欲求が満たされた状態のことで、経験的・質料的(内容が経験から来る)・偶然的な概念とされます。似た言葉にGlück(グリュック。幸運・幸福。運の含みが強い)があり、Seligkeit(ゼーリヒカイト。神的な存在にだけ属する完全な充足)は人間には当てはまりません。
カントの幸福論の核心は、Würdigkeit, glücklich zu sein(ヴュルディヒカイト。「幸福に値すること」)という言葉にあります。道徳性が人に与えるのは幸福そのものではなく、幸福を受けるに値する資格だ、というのです。
なぜそう考えるのでしょうか。幸福は、あらゆる有限な理性的存在者(人間のように理性をもつが完全ではない存在)が本性上必ず求めるものです。しかしそれは経験的な内容しか持たず、各人が何を幸福と考えるかは経験によって決まります。だから幸福からは普遍的な法則を引き出せません。道徳法則が無条件の必然性をもつのに対し、幸福に基づく原理は「もし〜を望むなら」という仮言的(条件つき)な命令にとどまるからです。ゆえに幸福は道徳の根拠にはなりえません。
にもかかわらず、カントは幸福を排除しません。das höchste Gut(ダス・ヘーヒステ・グート。最高善)とは、完全な徳と、それに比例した完全な幸福との統一だからです。人間が自ら追求すべきは幸福ではなく「幸福に値すること」です。そして徳と幸福の一致(徳福一致)はこの世では保証されないので、神の存在と魂の不死という「実践理性の要請」(道徳的に生きるために前提せざるをえない事柄)によって、はじめて考えることができるとされます。善意志(guter Wille〔グーター・ヴィレ〕。正しいことを正しいがゆえに意志する心)以外に、無制限に善いと呼べるものはない、というのがカントの出発点です。
一言でいえば、幸福は人生の目的ではなく、道徳的に正しく生きて幸福に値する者になることこそが、人間に課された課題だ、という立場です。
幸せを妨げるもの
カントの批判の主な対象は、幸福主義(Eudämonismus〔オイデモニスムス〕。幸福を道徳の目的や根拠とする立場)そのものです。エピクロス派(古代ギリシャの、快を善とする学派)、ストア派(古代ギリシャ・ローマの、理性による心の平静を説いた学派)、ハチスン(フランシス・ハチスン。18世紀の道徳哲学者)的な道徳感覚説(道徳の正しさは感情で分かるとする立場)、同時代のイギリス功利主義。これらはすべて道徳を「自己愛の原理」に還元してしまう、とされます。
個人にとって幸福を妨げるものは、二つあります。第一に、幸福という概念が不確定であることです。人間は、自分が本当に何を望んでいるのかを知りえません。第二に、自然が徳に報いてくれる保証がないことです。
この思想で「幸福の反対」にあたるのは、罪・背きに相当するもの、すなわち幸福を道徳の根拠にしてしまうこと(他律〔たりつ〕。自分以外のものに従うこと)です。
学習・思索
カントは、幸福への実践体系を持ちません。これは欠落ではなく、理論から導かれる結果です。カントにとって幸福は、経験的な熟練=賢慮(Klugheit〔クルークハイト〕。うまく生きるための知恵)の問題であり、道徳哲学の管轄外だからです。
道徳哲学が指示するのは、定言命法(ていげんめいほう。「もし〜なら」という条件なしに、無条件に従うべき道徳の命令)に従って、自分の格率(かくりつ。行為の際に自分が採っている方針)を吟味することです。そして、自己完成と他者の幸福を「義務としての目的」とすることです。ここに非対称性があります。他者の幸福を増やすことは義務ですが、自分の幸福は直接の義務ではありません(間接的な義務にとどまります)。この非対称性がカントの構造的な特徴です。
幸せはどこにあるのでしょうか。意味・道徳的価値の次元です。幸福の感情は個人の内面に属しますが、価値の重心は「幸福に値すること」=道徳的人格の尊厳(Würde〔ヴュルデ〕。値段をつけられない絶対的な価値)に置かれます。制度についての議論(『永遠平和のために』や法論)は、幸福ではなく権利(Recht〔レヒト〕)を確保することを目的としています。
いつ実現するのでしょうか。この世を超えたところで、です。徳福一致は経験的な世界では実現しないので、魂の不死による無限の前進と、神による配分という彼岸的な地平が要請されます。この世においては「無限の接近」にとどまります。実践の形としては学習・思索が中心で、時間軸のタグは「永遠」です。
モデルとしては、尊厳・値することモデル(幸福を目的から、資格の対象へと移した)とされます。ただし監査後の分類では、幸福を最高善や実践目標として構成しないため、幸福のモデル分類は「適用不能」と整理されています。
「私」と世界の境目
カントにおける「私」は、自律的主体(autonomes Subjekt〔アウトノーメス・ズブイェクト〕)です。自ら法則を立て、自らそれに従う理性的存在者です。関係類型でいえば分離型で、主体と客体(世界)は明確に区別されます。
ただし自己には二重性があります。感性界(感覚で捉えられる世界)に属する現象としての自己と、叡智界(えいちかい。理性によってのみ考えられる世界)に属する本体としての自己です。幸福を求めるのは前者で、道徳法則に従うのは後者です。この二重性はあっても、自己と世界とが溶け合うことは語られません。
境遇(運)と、努力か贈与か
幸福は運に依存する、とカントは認めます。しかし道徳的価値(人間が追求すべきもの)は、運から完全に独立しています。この切断こそがカントの要点です。したがって境遇との関係は「第三の立場」(幸福は境遇に依存するが、目指すべき価値は依存しない)にあたります。
努力か贈与か、という問いには、道徳的価値は努力(意志)によるもの、と答えます。ただし徳福一致は、最終的には神による配分を要請します。自分の力で到達できるのは「値すること」までであり、値するものが実際に与えられるかは、神に委ねられるのです。
苦しみの位置
カントにとって、苦は幸福の欠如ではありますが、道徳的価値を損なうものではありません。むしろ、傾向性(欲求)に反してでも義務を果たすことが、道徳的価値の明らかさを高める、という構造を持っています。つまり苦しい状況で正しく行うことは、その行為が本当に義務からなされたものであることを、いっそう際立たせるのです。苦しみを除去の対象とも、意味の場ともせず、道徳的価値とは別の次元に置いている点が特徴です。
目盛りの定義は 17のマップ の各「目盛りの定義」を参照。
ヘドニア/エウダイモニア、三分類の枠組み
カントの幸福概念そのものは、徹底してヘドニア(快と満足としての幸福)的です。傾向性の充足=快の総体だからです。しかしカントの倫理的な理想は、幸福の軸の外にあります。そのためヘドニア/エウダイモニア(人間としての機能の発揮としての幸福)の軸では位置づけ不能ともいえます。あえていえば、「ヘドニア的に定義された幸福を、エウダイモニア的でも快楽主義的でもない第三の価値(尊厳)に従属させる」という特異な配置です。
快楽説(快が善)/欲求充足説(望みが満たされることが善)/客観的リスト説(本人の感じ方によらず良いものの一覧がある)の三分類では、枠外です。幸福概念自体は快楽説的ですが、それを価値の中心に置きません。尊厳や道徳的完成は客観的な価値ですが、カントはそれを「幸福」とは呼ばないのです。
前野4因子との相性()
前野隆司(幸福学の研究者)の四因子(やってみよう=自己実現と成長/ありがとう=つながりと感謝/なんとかなる=前向きと楽観/ありのままに=独立と自分らしさ)は、いずれも「幸福な心理状態」の構成要素です。ところがカントは、まさにそれを道徳の根拠から外しました。したがって、対応づけは原理的に不適切です。四つのいずれにも記号を当てることが難しい、というのが整理です。
強いていえば、「やってみよう」に含まれる自律性は、カントのAutonomie(アウトノミー。自律)と語を共有します。しかし内実は別物です。カントの自律は「理性による自己立法」であり、心理的な主体感とは違います。
生きとし生けるものの幸せ(△ 人間が中心)
人間以外の存在への配慮は△(限定的)です。動物への義務は、間接的な義務にとどまります(『道徳形而上学』徳論)。動物虐待が禁じられるのは、それが人間の道徳感情を鈍らせるからです。動物そのものに対する直接の義務ではありません。尊厳は理性的存在者のみに認められます。この点で、感じうる者すべてを計算に入れる功利主義(E-01)と対照的です。
研究でどこまで確かめられているか
研究の裏づけは「少」です。幸福研究としては薄いのですが、批判理論としては強い、という位置づけです。
直接の接点は薄いものの、間接的な接続が三つあります。①幸福度政策への原理的な批判です。ウェルビーイングを政策目標にすることへの反論の多くは、カント的な「値すること/尊厳/権利」の語彙を使います。②尊厳(dignity)概念です。世界人権宣言、医療倫理、障害者権利条約における「固有の尊厳」はカント的な系譜をもちます。ヌスバウムのケイパビリティ・リスト(E-07)も、「人間の尊厳にふさわしい生」を正当化の根拠にしています。③注意点として、自己決定理論(SDT。ライアンとデシによる、人の動機づけを研究する心理学の理論)の「自律(autonomy)」は、語こそカント由来ですが、SDTのautonomyは「自己と統合された動機づけ」という心理学的な構成概念です。カントのAutonomie(理性による自己立法)とは別物なので、同一視は誤りです。
研究の対象という点では、カントの思想そのものが実証研究の対象になっているわけではなく、そこから派生した尊厳や権利の概念が制度に埋め込まれている、という形です。
どこから来て、どこへ流れたか
カントが受け継いだものは、ルソー(ジャン=ジャック・ルソー。18世紀の思想家。自律の考え)、ヒューム(デイヴィッド・ヒューム。18世紀スコットランドの哲学者。批判の対象として)、キリスト教の最高善論(ルター派の背景)です。
カントから流れていった先は、ドイツ観念論(フィヒテ、シェリング、ヘーゲルら)、ロールズ(ジョン・ロールズ。20世紀アメリカの哲学者。『正義論』)、ケイパビリティ・アプローチ(E-07)の尊厳論、世界人権宣言、医療倫理のインフォームド・コンセント(十分な説明を受けたうえでの同意)、ヌスバウム(マーサ・ヌスバウム。アメリカの哲学者)の「各人を目的として」という原理です。
発達段階論から見ると
自ら法則を立て自ら従う「自律」は、キーガン(ロバート・キーガン。成人の心の発達段階を研究した心理学者)の段階4(自分の基準を持つ自己。自己主導型)の哲学的な定式そのものです。キーガンの段階4は、カント的自律の心理学的な翻訳と読むことができます。
ただし、カントの「幸福に値すること」は、段階4の自己主導が幸福を保証しないことを認めています。この点で、段階4の限界を先取りしているといえます。
発達段階マップでは、器(実践を運営する自己のあり方)=4、目標(目指す自己のあり方)=4とされています。なお、段階が高いほど良いという読み方はしません。
【幸福を目標から外す】型です。「幸福に値する人であること」を目標にし、幸福そのものは目標にしない設計です。
これはウェルビーイング施策への原理的な対抗軸として欠かせません。「幸福度向上」をKPI(重要業績評価指標)にすることが、人を手段として扱う危険をもつ、と指摘する根拠になります。尊厳・権利の語彙はここから来ています。
安全装置戒律・倫理規範
安全装置のタグは「戒」(規律・規範による安全装置)です。定言命法という「普遍化可能性の検査」(自分の方針が誰にでも当てはまる法則になりうるかを確かめること)そのものが、安全装置になっています。感情や直観ではなく、理性の自己立法に従うため、宗教的熱狂(Schwärmerei〔シュヴェルメライ〕。根拠のない霊的な高揚)を明示的に退けます。
一方で、カントは実践体系を持たないため、制度的な装置はありません。
誤解されやすい点
①Glückseligkeit≠happiness≠幸福です。日本語の「幸福」は、Glück/Glückseligkeit/Seligkeit/Wohl(ヴォール。安寧)をすべて飲み込んでしまいます。カントのGlückseligkeitは「傾向性の全面的充足」という技術的な定義をもち、現代日本語の「幸せ」が含む意味充実感や人間関係の充足は含みません。
②「カントは幸福を否定した」は誤りです。幸福を道徳の根拠にすることを否定したのであって、最高善の構成要素としては積極的に承認しています。また他者の幸福の増進は義務です。
③Würdigkeitの訳の問題です。Würde(尊厳)との語源的なつながりが、日本語では見えなくなります。
④「幸福に値する」は報酬論ではありません。徳を積めば幸福が報酬として返ってくる、という因果関係ではなく、徳と幸福の比例的な一致(Proportion)が理念として要請されているだけです。
学者の間で議論があること
①最高善論の整合性をめぐる論争です。道徳は自己充足的なはずなのに、なぜ幸福を含む最高善が必要なのか。ベック(ルイス・ホワイト・ベック。20世紀アメリカのカント研究者)の「最高善不要説」と、それに反対する解釈の対立が古典的です。
②世俗的最高善か、神学的最高善か。最高善を政治的・歴史的に実現される目標(倫理的共同体、永遠平和)として読む解釈と、神の要請を不可欠とする読みの対立です。
③幸福は義務か、という問題です。
④ニーチェ(E-03)によるカント批判です。道徳法則への服従は生の否定である、という批判です。
こんなときに:幸せを目標にすること自体に違和感があるとき。「幸せに値する人であること」を目標にしたい人に。
小さな入口:「幸せになれるか」ではなく「自分は今日、正しく行動したか」だけを問う。幸福は目標ではなく、結果として来るものとして扱う。
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この世界のうちにも、世界の外にも、無制限に善いと呼びうるものは、善い意志のほかには何ひとつ考えられない。
幸福も才能も無条件には善くない。善さの根拠を結果や快ではなく意志の質に置く、カント倫理学の出発点。
幸福の概念はきわめて不確定であり、誰もがそれを得たいと願いながら、自分が本当に何を望み欲しているのかを、はっきりと首尾一貫して言うことができない。
幸福が道徳の基準になれない理由。人は自分の幸福の中身を知りえない——これがカントにとって幸福の最大の妨げ。
道徳とは本来、いかにして幸福になるかの教えではなく、いかにして幸福に値する者となるべきかの教えである。
カントの幸福観を最も端的に示す一文。目標は幸福そのものではなく「幸福に値すること」。
徳と幸福とが合わさって一人の人格における最高善の所有をなし、しかも幸福が道徳性にちょうど比例して配分されている——それが可能な世界の最高善である。
カントは幸福を捨てたのではない。徳に比例した幸福(徳福一致)を最高善とし、その保証として神と不死を要請した。
同時に義務でもある目的とは何か。それは、自己の完成と、他者の幸福である。
自分の幸福は義務ではないが、他者の幸福は義務である。この非対称性がカント的な「幸福との関わり方」。
主な典拠:Kant, Grundlegung zur Metaphysik der Sitten (1785) 第一章冒頭(「善意志以外に無制限に善と呼びうるものはない」)および「幸福に値すること」の導入(Ak 4:393とされるが巻頁は通説)/Kritik der praktischen Vernunft (1788) 第二部「純粋実践理性の弁証論」(最高善、徳福一致のアンチノミー、神の存在と魂の不死の要請、Ak 5:110ff)/Die Metaphysik der Sitten 徳論 (1797)(自己完成と他者の幸福=義務としての二つの目的)
参考文献:Kant's Moral Philosophy, Stanford Encyclopedia of Philosophy(幸福が道徳を基礎づけえない理由、最高善、Würdigkeitを明示的に論じる)/Crisp, R., Well-Being, SEP/※Beck, L. W. (1960) A Commentary on Kant's Critique of Practical Reason、Reath, A. (1988) Two Conceptions of the Highest Good in Kant、Wood, A. (1970) Kant's Moral Religion は定番だが本調査で実在未確認
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