世界の思想と宗教の幸福観マップ

各思想からの悩み相談30 ・ 人間関係 15/30

親との関係がつらい(支配的な親・毒親)

この悩みの形

電話が鳴るだけで胃が縮む。帰省のたびに、子どものころの自分に戻ってしまう。「あなたのためを思って」と言われ続け、何が自分の望みなのか分からない。大人になっても、親の機嫌を先回りして読む癖が抜けない。そして、そんな親を遠ざけたいと思う自分を、「親不孝だ」と責めてしまう。

「毒親」は俗語で、診断名ではありません。けれども、支配、過干渉、暴言、無視、経済的な縛りという形で、子を一人の人として認めない関係はあります。この悩みの難しさは、世の中の答えが「親を許しなさい」「親も苦労したのだから」「産んでもらった恩がある」と、ほとんど一方向に偏っていることです。マップの目盛りで見ると、幸せの主語を関係の場に置く伝統は47のうち28と多数派で、その多くが家族を重んじます。だからこの悩みでは、伝統の言葉が「耐える理由」に誤用される危険が、どの悩みよりも高くなります。

一方で、苦しみの位置を「関係が崩れたしるし」と読む伝統は、関係を結び直すか、結び直せない関係から離れるかを問います。距離を取ることは、関係構成型の伝統でも正当な選択肢です。先に線を引いてから、各伝統の言葉を置きます。

先に言っておきたいこと

第一に、儒教の孝(こう。親を大切にすること)を、暴力や支配に耐える理由にしないでください。原始儒教において五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友という五つの関係)の義務は相互のもので、親には親の務めがあります。子だけに一方的な服従を求める「孝」は、後の時代の家制度が強めた読み方で、孔子の思想そのものではありません。孟子は、悪い環境に沈み込むこと(陥溺)を、生まれつきの善い心を失わせる妨げに数えました。害のある場から離れることは、儒教の語彙でも逃避ではありません。第二に、キリスト教の「父母を敬え」、仏教の「恩」も同じで、どの伝統も人を手段として扱う関係を肯定してはいません。第三に、暴力、脅し、金銭の要求、無断の侵入がある場合、それは構えの問題ではなく、法と制度の対象です。距離を取ること、連絡を絶つことは、あなたの権利です。伝統の言葉は、そのあとで、あなたが自分を責めないために使ってください。

各思想からの答え

認識転換型——「親の子」という自己像を外す

ストア派

ストア派(古代ギリシャ・ローマの哲学)のエピクテトス(奴隷の身から自由になった哲学者)は『提要』1.1で「存在するもののうち、あるものは私たち次第であり、あるものは私たち次第ではない」と言いました。ここから言えるのは、親の性格、親の機嫌、親が変わるかどうかは、あなた次第ではありません。あなた次第なのは、会う頻度、電話に出るかどうか、何を話すかという自分の判断です。親を変えようと力を注ぐと、必ず疲れます。エピクテトス自身が、主人から自由になった人です。

ヒンドゥー(ヴェーダーンタ)

ヴェーダーンタ(インド最古の聖典の哲学的解釈を行う学派)は、「自分は小さくて限られた存在だ」という思い込みそのものを不幸の原因と見ます。本当の自己は、その限定より大きい。これを引きつけると、「あの親の子である私」「期待に応えられなかった私」という自己像は、親が与えた限定にすぎない、ということになります。親の評価の中で作られた自己像は、あなたの全部ではありません。「私は〜だ」という自己規定を一つ書き出し、それが親の声でないかを、静かに眺めてみてください。

関係構成型——関係の中で人になる、ただし、この関係とは限らない

アドラー(個人心理学)

アドラー(オーストリアの精神科医。1870〜1937年)の考えを岸見一郎が再構成した「課題の分離」では、親がどう感じるか、親が変わるかは親の課題です。あなたの課題は、自分がどう生きるかだけです。アドラーは、甘やかしと支配の両方を、共同体感覚が育たない原因に数えました。今のあなたに置き直すと、親の機嫌を引き受け続けることは、他人の課題を背負わされている状態です。アドラーが求めたのは共同体への貢献であって、親への服従ではありません。あなたが役に立つべき共同体は、実家より広いのです。

儒教(原始)

原始儒教(孔子・孟子の思想)では、人は役割の中で自己が形づくられ、父は父として、子は子として、それぞれの務めを果たすことで関係が成り立ちます(正名論。名と実を一致させる考え)。親が親の務めを果たしていない関係で、子だけが子の務めを果たし続けることは、儒教の言う正しい関係ではありません。五倫の義務は相互のものです。儒教の語彙で言っても、害のある場から離れることは、徳を守る行為です。

Ubuntu

南アフリカ憲法裁判所の判決(S v Makwanyane、1995年)は、ウブントゥ(「人であること」をめぐる考え)について「それは、人が人であるという地位を認める。共同体の成員から無条件の敬意・尊厳・価値・受容を受ける資格をもつ、という地位である」と述べました。あなたの場面で言えば、あなたは無条件に尊厳と受容を受ける資格を持っており、それを与えない関係は、ウブントゥの言葉ではまだ人と人の関係になっていない、ということになります。人は人々を通して人になりますが、その人々が親である必要はありません。

マオリ

マオリ(ニュージーランドの先住民)の「四つの壁をもつ家」というモデルでは、健やかさは霊性・心・身体・家族の四本の柱が均衡して立つ家にたとえられ、家族の柱をなすファーナウは、親子ではなく拡大された親族・共同体の単位です。親との関係が崩れていることは、家族の柱が一本丸ごと倒れたことを意味しません。祖父母、きょうだい、いとこ、あるいは血縁でない「家族のような」人たち。柱は一人で支えるものではなく、親以外の誰かで立て直すことができます。

除去・回復型——認められたい、という火を見る

仏教(上座部)

上座部仏教(じょうざぶぶっきょう。パーリ語の経典を用いる仏教)は、苦の正体を渇愛(かつあい。止まらない「もっと」の衝動)に見ます。ここから言えるのは、「親に認められたい」「一度でいいから謝ってほしい」という思いも、この語彙では渇愛です。その火が、あなたを親の近くに縛りつけている、という構造を見るためです。火を見ているあいだは、燃料を足さずに済みます。認められなくても、謝られなくても、あなたの価値は減りません。それを知ることが、火を小さくします。

神道

神道の基本の形は、付着した穢れ(けがれ)を祓(はら)って、もとの清らかな状態に戻る、という繰り返しです。穢れは罪ではなく、責めずに流すものです。今のあなたに置き直すと、親と会った後に残る重さを、「自分が悪い」と反省で処理するのではなく、くもりとして祓うことになります。帰省から戻った日に、入浴、散髪、神社への参拝など、区切りの儀礼を一つ持ってください。「区切る」という行為が、身体に「あの場は終わった」と伝えます。悔い改めではなく祓いで回復する、というのが神道の設計です。

エピクロス派

エピクロス派(古代ギリシャの哲学の学派)にとって、苦痛の源から身を引くことは最も基本的な実践です。欲望を三つに分け、必要で自然なもの(安全、休息、一人の友)だけを満たせば足りる、と考えました。親との関係があなたの安全と休息を奪っているなら、この伝統は留まる理由を一つも持っていません。「親に認められること」は、この分類では空虚な欲望に近く、限度がありません。安全と、一人の信頼できる人。それが満たされているなら、あなたはすでに足りています。

副産物型——親の影と、自分の人生

ユング(分析心理学)

ユング(スイスの精神科医)は「人は光の像を思い描くことによってではなく、闇を意識化することによって明るくなる」と書きました(『哲学の木』)。あなたの場面で言えば、親への怒り、憎しみ、それでも愛されたいという思いは、消すべき闇ではなく、意識化すべき闇です。「親を許せない自分」を影として否認すると、それは別の場所、たとえば自分の子や配偶者への関わりに投影されます。許すことを目標にしないでください。自分の中の闇を見ることが、ユングの言う個性化(自分の全体になっていくこと)の入口です。

実存主義

実存主義(サルトルやフランクルらの哲学)は、人間にあらかじめ決まった本質はなく、与えられた状況の中で自分の態度を選ぶ自由が最後まで残る、と説きます。どんな親のもとに生まれたかは選べませんが、その親とどう関わるか、距離をどう取るかは、あなたが自分の名前で選べます。「親のせいでこうなった」という物語を、「親のもとで、自分はこう選んだ」という物語に書き直す。それは親を免責することではなく、人生の主語を自分に戻すことです。

キュニコス派・ピュロン主義

キュニコス派(犬儒派。慣習を無視して生きた古代ギリシャの哲学者たち)は、世間の常識を虚妄(テューフォス)と呼んで疑いました。ピュロン主義(判断を保留する懐疑派)は、「これは本性上善い/悪い」という信念そのものを保留します。ここから言えるのは、「親とは仲良くすべきだ」「親を捨てるのは悪だ」という信念も、慣習が作ったものとして一度疑ってよい、ということになります。保留してみたとき、平静が影のようについてくることがあります。親子であることは事実ですが、親子はこうあるべきだ、は信念です。

贈与・応答型——親から受け取らなくても、受け取っているもの

仏教(浄土)

浄土教(法然と親鸞が開いた仏教の流れ)では、人は欲や怒りを断てない凡夫(ぼんぶ)のままで救われます。今のあなたに置き直すと、二つのことが言えます。一つは、親も凡夫だということです。ただし凡夫であることは、害を許す理由にはなりません。もう一つは、あなたも凡夫でよいのです。親を憎む自分、距離を取る自分を、「善い子」になって帳消しにしなくていい。親から受け取れなかったものがあっても、あなたはすでに別のところから受け取っています。「ありがたい」の宛先は、親でなくてかまいません。

ユダヤ教

『申命記』30:19に「私は今日、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置いた。命を選びなさい。あなたも子孫も生きるために」とあります。ユダヤ教の幸せ(シャローム。欠けたところのない満ちた状態)は、家庭と共同体という具体的な場に現れますが、それは正義(ツェデク)と切り離せません。「命を選ぶ」とは、あなたを損なう関係ではなく、あなたと、あなたの次の世代が生きられる側を選ぶことです。連鎖を止めることは、親への裏切りではなく、子孫のための選択です。

制度・集計型——距離を取る手段は、制度にある

ケイパビリティ・アプローチ

経済学者センと哲学者ヌスバウムは、生の良さを「価値ある生き方を実際に選べる自由の広さ」で測ります。鍵になるのが適応的選好(長く抑圧された人は、望みのレベル自体を下げてしまうこと)です。あなたの場面で言えば、「このくらいは普通」「うちはまだまし」とあなたが感じていても、それは剥奪がないことを意味しません。実際に選べる幅、つまり経済的に自立できるか、別の住まいがあるか、相談できる窓口を知っているかが問題です。幅を広げるのは我慢ではなく、制度の仕事です。

カント

カント(18世紀ドイツの哲学者)は、幸せを目標にしない立場ですが、人間の尊厳という考えの源流です。人を手段としてのみ扱ってはならず、常に同時に目的として扱え、というのが彼の原則です。子を自分の不安や体面や老後の手段として扱う親は、この原則を破っています。そして、あなたが自分を親の手段として扱い続けることも、同じ原則に反します。自分の尊厳を守ることは、カントでは義務です。距離を取ることは、親を罰することではなく、自分を目的として扱うことです。

今日からできる三つのこと

試すなら、この中から一つ。伝統の実践(瞑想・行・祈り)の代わりではなく、考え方に触れるための小さな入口です。

  1. 親からの連絡に、即答しない。「後で返す」と決めて、返事までの時間を自分の持ち物にする(ストア派)
  2. 帰省や電話の後に、区切りの儀礼を一つ持つ。入浴、散歩、神社、友人への一言。「あの場は終わった」と身体に伝える(神道)
  3. 「親とはこうあるべきだ」という文を一つ書き出し、それが誰の声かを眺める。答えを出さなくてよい(キュニコス派・ピュロン主義)

こういうときは専門家へ

暴力、脅迫、つきまとい、無断の訪問、金銭の要求がある場合は、警察相談専用電話(#9110)に相談でき、身の危険があれば110番です。18歳未満なら児童相談所虐待対応ダイヤル(189)があります。転居先を親に知られたくない場合、市区町村の窓口で住民票の閲覧制限(支援措置)を相談できます。金銭の要求や接触の禁止については、法テラスで弁護士に相談できます。幼いころからの支配や暴言の影響で、感情の波が激しい、フラッシュバックがある、という場合は、精神科・心療内科や精神保健福祉センターに相談してください。話したいだけのときは、よりそいホットライン(0120-279-338)、消えてしまいたい思いがあるときは、いのちの電話、#いのちSOS(0120-061-338)に電話してください。親の介護が絡むなら、地域包括支援センターが窓口です。

つらさが強いとき・「消えてしまいたい」と感じるときは、どうかひとりで抱えないでください。まもろうよ こころ(電話・SNSの相談窓口一覧)/よりそいホットライン 0120-279-338(24時間・通話無料)。
ひとこと距離を取ることは、親を捨てることではなく、自分を拾うことです。

この悩みを含む30の悩みは、PDFでも読めます:各思想からの悩み相談30(PDF)

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