世界の思想と宗教の幸福観マップ

インド系(ヴェーダ) | 宗教の内部潮流(哲学的学派)

ヒンドゥー(ヴェーダーンタ)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ/解脱) | 成立:紀元前 | 地域:南アジア | 規模:多(親思想12億に含む)
1ひとことで言うと

「私は有限な個人だ」という思い込みが錯覚だと見抜いたとき(本当の自己=アートマンは宇宙の根源=ブラフマンと同一)、存在そのものが歓喜になる

「自分は小さくて有限な存在だ」という思い込みこそが不幸の原因で、本当は自分の本質と宇宙の根本原理は同じものだ、と説く。幸せは獲得するものではなく、この錯覚が消えたときに「もともとそうだった」と気づくもの。だから修行の中心は、瞑想や実践というより、師のもとで聖典を聞き、考え抜くこと。

2そもそもどんな思想?

ヒンドゥー教のうち、最古の聖典ヴェーダの奥義書ウパニシャッド(紀元前7〜3世紀)を哲学的に解釈する学派。8世紀のシャンカラが「自己と宇宙の根本は一つである」という不二一元論を完成させ、インド思想の主流の一つとなった。19世紀以降はヴィヴェーカーナンダらによって欧米にも紹介された。ヒンドゥー教徒約12億人のなかで、教義の面で最も影響力の大きい系譜。

どれくらいの人が信じているか、学んでいるか

ヒンドゥー教全体で約12.0億人です(2020年時点。ピュー・リサーチ・センターという米国の調査機関の2025年版報告による)。ただしヴェーダーンタはヒンドゥー諸思想の一系譜にすぎず、「ヒンドゥー教徒=ヴェーダーンタ信奉者」ではありません。

注意点として、世界のヒンドゥー教徒の圧倒的多数がインドに集中しているため、数字は事実上インドの国勢調査が基盤です。2021年の国勢調査は延期されたままで、最新は2011年です(ヒンドゥー教徒9億6,620万人、人口の79.80%)。つまり実質15年前のデータの外挿です。

3この思想が言う「幸せ」

ヴェーダーンタ(インド最古の聖典ヴェーダの「結論部分」という意味の言葉。その哲学的な解釈を行う学派)が言う幸せの中心にある言葉は、解脱(げだつ。サンスクリット語でモークシャまたはムクティ。解き放つこと)と、アーナンダ(歓喜・至福)です。アーナンダはブラフマン(宇宙の根本原理・究極の実在)の本性を表す言葉で、サット・チット・アーナンダ(存在・意識・歓喜)という定型句で語られます。もう一つの核になるのが、ブラフマンとアートマン(個人の本当の自己・真我)が同一である、という主張です。ほかに、ジーヴァンムクティ(生きながらの解脱)、ブーマン(大なるもの・充ちあふれるもの)といった言葉があります。

この思想は、「幸福を手に入れる」という発想そのものを逆転させます。至福は獲得の対象ではなく、実在(ブラフマン)の本性であり、それは同時に自己(アートマン)の本性でもあります。したがって不幸とは、本来無限であるものが、自分を有限な一個の存在だと誤って認識していること、つまり無明(むみょう。アヴィディヤー)にほかなりません。解脱とは新しい状態に到達することではなく、この誤った認識が消えることです。8世紀の思想家シャンカラは、すでに自由であるものが自由を「悟る」だけだ、と説きました。

古い聖典『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』(ウパニシャッドはヴェーダの奥義書。紀元前7〜3世紀頃)には「大なるものこそ幸福であり、小なるものに幸福はない」という言葉があります。これは、有限なもののうちに幸福を求めること自体がカテゴリー錯誤(種類の違うものを取り違える間違い)だ、という診断を与えています。

なぜそう考えるのでしょうか。自分の本質と宇宙の根本原理は同じものであり、「自分は小さくて有限な存在だ」という思い込みこそが不幸の原因だからです。幸せは獲得するものではなく、この錯覚が消えたときに「もともとそうだった」と気づくものです。だから修行の中心は、瞑想や身体的な実践というより、師のもとで聖典を聞き、考え抜くことに置かれます。

なお、この資料は、ヒンドゥー教のなかでも解脱を一元論的(世界の根本は一つだとする立場)に説く系譜を扱っています。思想の源は古ウパニシャッド(紀元前7〜3世紀頃、北インド)にあり、『ブラフマスートラ』(紀元後2〜4世紀頃の綱要書)を経て、シャンカラ(8世紀)、ラーマーヌジャ(11〜12世紀)、マドヴァ(13世紀)といった思想家が解釈を競いました。

幸せを妨げるもの

幸せを妨げるものは、無明(アヴィディヤー)と無知(アジュニャーナ)です。そして、それに基づく附託(ふたく。アディヤーサ。本当の自己に、自己でないものを重ねてしまうこと)です。

そこから派生するものとして、我執(がしゅう。アハンカーラ。「私」という思いへのこだわり)、欲望(カーマ)、業(ごう。カルマ。行為とその結果の力)、サンスカーラ(過去の行為が残す潜在的な傾向)が挙げられます。

この思想で幸せの反対にあたるのは、無知・誤認の類型で、具体的には無明(自分を有限だと誤認すること)です。心の中の悪や罪ではなく、認識の誤りが根本の妨げだという点が特徴です。

4幸せに近づく道

学習・思索瞑想・観想

実践の中心は、知のヨーガ(ジュニャーナ・ヨーガ。知ることによって解脱に至る道)です。まず四つの資糧(しりょう。前提となる資格)を整えます。識別(ヴィヴェーカ。永遠なものと移ろうものを見分ける力)、離欲(ヴァイラーギヤ。欲望から離れること)、六つの徳、そして解脱への渇望です。そのうえで三つの段階を進みます。聴聞(シュラヴァナ。師から聖典を聞くこと)、思惟(マナナ。聞いたことを考え抜くこと)、深い瞑想(ニディディヤーサナ)です。師(グル)と、ウパニシャッドの聖句(マハーヴァーキヤ。「大いなる言葉」。たとえば「タット・トヴァム・アシ=それは汝である」)の媒介が必須とされます。人生の最終段階として、サンニヤーサ(遊行期。家を離れて放浪する出家の段階)に入ることも道の一部です。実践の形としては、学習・思索と瞑想・観想の二つの型です。

幸せはどこで実現するのでしょうか。個人の内面と言えます。しかしその「内面」が、個体を超えて宇宙的な実在と同一視される点で、通常の「内面」と「超越」の区別が意味を失います。自己=宇宙=超越者の三点が一致するのです。この点で、この思想の型は「認識転換モデル」と整理されています。本来すでにそうであるものを、誤った認識から解放する型です。

いつ実現するのでしょうか。今ここ(ジーヴァンムクティ。生きながらの解脱)と、永遠(ヴィデーハムクティ。身体を離れた解脱)の両方です。輪廻(りんね。生まれ変わりの繰り返し)は前提ですが、解脱は輪廻という時間の軸そのものから離れることです。時間軸としては、今ここと永遠の二つにまたがります。

5この思想の「幸せ」のかたち——8つの目盛り
幸せの動き
見方が変わると問題そのものが消える(認識転換型)
幸せの主語
一人ひとりの心と生き方
「私」と世界の境目
非二元型——「私」と世界の境目そのものが解ける
境遇(運)との関係
境遇に左右されない(心の持ち方・修行で守れる)
自分で作るか、与えられるか
努力して手に入れる
苦しみの位置
探究の出発点(苦があるから道が始まる)
いつ実現するか
今ここ/永遠
幸せの反対
無知・誤認(avidyā(自分を有限と誤認する無明))

「私」と世界の境目

「私」と世界の関係は、非二元型(自己の境界を解除する型)に分類されます。アートマンはブラフマンと同一です。主体が限られた存在であること自体が錯覚(無明)であり、それが見抜かれれば主体と客体の区別は消えます。

ただしこれは、自己の解体ではなく、自己の拡張、あるいは限定の解除です。仏教の無我(むが。永続する自己はないという教え)とは決定的に異なり、アートマンという真の自己が肯定されます。ただしそれは一個の個体としての自己ではありません。「小さな自己は幻であり、大きな自己こそ実在である」という立場です。仏教とは違って「大きな自己」が残る、という点がこの思想の特徴です。

境遇(運)と、努力か贈与か

境遇については、完全に独立しています。解脱は、境遇・行為・運のいずれにも依存しない、認識の事柄だからです。

努力か贈与かについては、知による自力に分類されます。ただし、師と聖句の媒介が不可欠です。つまり一人で考えて到達するのではなく、師と聖典を通して知が伝えられます。また、有神論的なヴェーダーンタ(人格をもつ神を認める立場。ラーマーヌジャなど)では、恩寵(おんちょう。プラサーダ。神から与えられる恵み)の比重が増します。

苦しみの位置

苦しみは、誤った認識の結果です。自分を有限な個体だと思い込むことから苦が生じます。

したがって苦そのものに積極的な意味は与えられません。苦を通して成長する、苦が信仰を証明する、といった考え方はこの思想にはありません。誤認が消えれば苦も消える、という位置づけです。

目盛りの定義は 17のマップ の各「目盛りの定義」を参照。

6現代の幸福研究から見ると

ヘドニア/エウダイモニア、三分類の枠組み

ヘドニア(快と満足としての幸福)とエウダイモニア(人間としての機能の発揮としての幸福)という枠組みで見ると、この思想はどちらにも収まりません。アーナンダは「快」の言葉の圏内にありますが、感じ取られる快ではありません。かといって「徳の開花」でもありません。解脱は徳の完成ではなく、認識の転換だからです。西洋的な二分法が最も機能しない事例であり、「認識論的幸福観」という第三の極を立てる必要がある、と評価されています。

快楽説(快が幸福だとする考え)/欲求充足説(望みが叶うことが幸福だとする考え)/客観的リスト説(本人の感じ方によらず、幸福を構成する善いものの一覧があるとする考え)という三つの枠組みで見ると、枠外です。善いものの実現でも、欲求の充足でもなく、誤った認識の消滅だからです。

前野4因子との相性(やってみよう=△ ありがとう=△ なんとかなる=◎ ありのままに=◎)

前野隆司(まえのたかし。幸福学を研究する日本の研究者)の4因子との相性は次のとおりです。

「ありのままに」(独立と自分らしさ)は◎、とてもよく合います。本来の自分に気づくこと、つまり本来性の自覚が中心だからです。

「なんとかなる」(前向きと楽観)は◎、とてもよく合います。動かない実在への信があるからです。

「やってみよう」(自己実現と成長)は△、あまり合いません。獲得や達成ではなく、認識の転換を説く思想だからです。

「ありがとう」(つながりと感謝)は△、あまり合いません。他者との関係性は、解脱を構成する要素ではないからです。

生きとし生けるものの幸せ(○ 含むが、人間との差はある)

人間以外の存在への配慮は、○〜◎(一定の根拠があり、思想によっては強い)と評価されます。『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』には「アートマンのゆえに一切が愛しい」という言葉があります。一切がブラフマンであるため、他者の幸福と自己の幸福は区別されません。

ただしその構えは、他者の幸せを「願う」というより、他者と自分が「同一であると知る」というものです。「サルヴェー・バヴァントゥ・スキナハ(一切の者が幸せでありますように)」という祈りは広く唱えられていますが、出典は後代のシャーンティ・マントラ(平安を祈る定型句)で、特定は困難です。

研究でどこまで確かめられているか

研究による裏づけは「少」で、類比研究にとどまります。

自己超越(self-transcendence)の尺度研究との親和性が語られています。たとえばレヴェンソンらの研究(2005年)による「成人自己超越尺度(ASTI)」です。ただし ASTI は加齢に伴う心理的成熟を測るもので、モークシャ(輪廻からの離脱)という宇宙論的な主張とは次元が異なります。

また近年の「非二元的気づき(nondual awareness)」を測る尺度群も、アドヴァイタ(不二一元論)の認識論的な主張を経験の状態へと還元している点で、思想の自己理解とずれています。つまり、研究されているのは思想そのものではなく、それに似た心理状態です。

7系譜と発達段階

どこから来て、どこへ流れたか

影響を受けたものは、ヴェーダとウパニシャッドです。

影響を与えたものとしては、ヒンドゥー教全体の正統神学があります。ラーマーヌジャやマドヴァは、シャンカラに対抗しつつその枠組みを継承しました。シク教にも間接的な影響があります。19世紀以降は、ヴィヴェーカーナンダ(19世紀のインドの宗教家。ヴェーダーンタを欧米に紹介した)を経由して、西洋のニューエイジ思想、超越瞑想、「非二元」をめぐる言説に流れ込みました。

また、仏教の無我説とは千年以上にわたって論争を続けてきました。

発達段階論から見ると

キーガン(成人の心の発達段階を研究した心理学者)の段階論で見ると、器(実践を運営する自己のあり方)は段階3、目標(目指す自己のあり方)は「解」と整理されています。「解」とは、段階の軸そのものからの解除を意味します。

「私は有限な個体だ」という自己同一化の解除は、段階5(自分の枠組みを相対化できる自己)のさらに上の段階ではなく、キーガンの段階軸の外にあります。ただしそれは、発達によって獲得されるのではなく、認識の転換によって「もともとそうだった」と気づかれるものです。この回復モデルは、段階論のように積み上げていく構造とは根本的に相容れません。

なお、段階が高いほど良い、という読み方はしません。

8現代の言葉に翻訳すると

現代の言葉に翻訳すると、【見方を変える】型です。「自分は小さく限られた存在だ」という自己認識の枠自体を問い直す設計です。

これは、認知の書き換え(考え方の内容を修正すること)ではなく、認識の転換です。自己超越を扱う介入に近いものです。ただし実証研究は乏しいため、あくまで類比にとどめるべきだとされています。

9気をつけたいこと

安全装置師の監督・段階的伝授順序・前提条件・資格戒律・倫理規範

この思想の安全装置には、師・段・戒の三つのタグがつけられています。師は指導者、段は段階、戒は規律を指します。

具体的には、スワディヤーヤ(聖典の学習)とグル(師)の指導があります(師)。四つの前提資格(識別・離欲・六つの徳・解脱への渇望)を満たしてから不二の教えを学ぶ、という順序があります(段)。そして倫理(ヤマ・ニヤマ。してはならないことと、すべきことの規範)と生活段階(アーシュラマ。学生期・家住期・林住期・遊行期という人生の四つの段階)が、思弁の暴走を枠づけます(戒)。

誤解されやすい点

誤解されやすい点は次のとおりです。

①アーナンダを英語の bliss、日本語の「至福」と訳すと、強い快の感情を想像させます。しかしヴェーダーンタでは、感じ取られる情動ではなく、存在のあり方です。スカ(感受される快)との区別が決定的に重要です。

②マーヤー(幻。世界の現れをつくり出す力)を「世界は幻で無価値だ」と読む虚無主義的な解釈は誤りです。

③「タット・トヴァム・アシ」を「あなたは神です」と訳すと、有神論的にゆがみます。

④モークシャを「救済」と訳すと、キリスト教的な罪と赦しの構図が混入します。

⑤ヴェーダーンタはヒンドゥー教全体ではありません。ヒンドゥー教徒がみなヴェーダーンタを信奉しているわけではありません。

学者の間で議論があること

学者の間で議論があることは次のとおりです。

①不二一元論(シャンカラ。自己と宇宙の根本は一つだとする立場)と、限定不二一元論(ラーマーヌジャ。一つではあるが、個我と世界は神の属性として実在するという立場)と、二元論(マドヴァ。神と個我は別だとする立場)の対立です。世界と個我は実在するか、解脱後も個我は神との関係を保つか、が争点です。

②ジーヴァンムクティ(生きながらの解脱)は可能か、という問題です。

③無明(アヴィディヤー)の存在論的な身分、つまり無明はどのような意味で「ある」のか、という問題です。

④シャンカラの著作とされる文献の真偽です。

⑤ネオ・ヴェーダーンタの問題です。ヴィヴェーカーナンダ以降の「普遍的ヴェーダーンタ」が、シャンカラの立場とどれほど連続しているか、が問われています。

10現代の私たちへのヒント

こんなときに:「自分は小さくて限られた存在だ」という感覚に押しつぶされそうなとき。自分の輪郭を疑ってみたい人に。

小さな入口:「私は〜だ」という自己規定を一つ書き出し、それが本当に自分の全部かを静かに眺める。答えを出さなくてよい。

この思想が出てくる悩み:「「自分」というものが重くて息苦しい。自分から解放されたい」

判定が近い思想:禅・ストア派・仏教(上座部) → 思想の近さマップ

11名言——この思想を代表する言葉
大なるものこそ幸福である。小なるもののうちに幸福はない。大なるものだけが幸福である。だからこそ大なるものを知ろうと求めるべきだ。
yo vai bhūmā tat sukham, nālpe sukham asti, bhūmaiva sukham, bhūmā tv eva vijijñāsitavyaḥ
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』7.23.1

有限なもののなかに幸福を求めること自体が誤りだと診断する。幸福は獲得するものではなく無限の実在の本性だというヴェーダーンタの出発点。

「私はブラフマンである」——そう知る者は一切となる。だが「彼は別、私は別」と思って神格を拝む者は、知らない者である。
ahaṃ brahmāsmi ... sa yo 'nyāṃ devatām upāste, anyo 'sāv anyo 'ham asmīti, na sa veda
『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』1.4.10

自分を有限な個体だと誤認すること(無明)が不幸の根だという診断。「私は別の存在だ」という思い込みこそが妨げとされる。

この微細なもの、それをこの一切は自己としている。それが真実であり、それがアートマンである。それがおまえなのだ、シュヴェータケートゥよ。
sa ya eṣo 'ṇimaitad ātmyam idaṃ sarvam, tat satyam, sa ātmā, tat tvam asi śvetaketo
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6.8.7

父ウッダーラカが息子に授ける大聖句(マハーヴァーキヤ)。師のもとで聖句を聴聞し思惟することが解脱の道だという実践のかたちを示す。

夫が愛しいのは夫のためではなく、アートマンのためである。……一切が愛しいのは一切のためではなく、アートマンのためなのだ。
na vā are patyuḥ kāmāya patiḥ priyo bhavati, ātmanas tu kāmāya patiḥ priyo bhavati ... ātmanas tu kāmāya sarvaṃ priyaṃ bhavati
『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』2.4.5(ヤージュニャヴァルキヤとマイトレーイーの対話)

他者への愛は自己と一切の同一性に根ざすとする。他者の幸福と自己の幸福が区別されないヴェーダーンタの関係観を示す。

これがその者の最高の歓喜である。他の生きものたちは、この歓喜のほんの一部分によって生きている。
eṣo 'sya parama ānandaḥ, etasyaivānandasyānyāni bhūtāni mātrām upajīvanti
『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』4.3.32

歓喜(アーナンダ)は感じられる快ではなく実在そのものの様態であり、日常の快はその断片にすぎないという逆転の視点。

12もっと知りたい人へ

主な典拠:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6.8.7(tat tvam asi)、7.23.1(大なるものこそ幸福)/『ブリハッドアーラニヤカ』1.3.28、2.4.5、4.3.32-33/『タイッティリーヤ』2.1、2.5(ānandamaya-kośa)、2.8(至福の計量)/『ブラフマスートラ』1.1.12-19/シャンカラ『ブラフマスートラ註』『ウパデーシャサーハスリー』

参考文献:Deutsch, E. (1969) Advaita Vedānta, Univ. of Hawaii Press/Fort, A. (1998) Jīvanmukti in Transformation, SUNY/Olivelle, P. (1998) The Early Upaniṣads, Oxford UP/Flood, G. (1996) An Introduction to Hinduism, Cambridge UP/Carman, J. (1974) The Theology of Rāmānuja, Yale UP

13用語解説
ヴェーダーンタ インド最古の聖典ヴェーダの「結論部分」を意味し、その哲学的解釈を行う学派
ブラフマン 宇宙の根本原理・究極の実在
アートマン 個人の本当の自己・真我
解脱(モークシャ) 輪廻から解き放たれること。ムクティとも言う
アーナンダ 至福・歓喜。実在そのものの性質とされる。感じ取られる快(スカ)とは区別される
無明(アヴィディヤー) 本来の自己を有限な個体だと誤認すること
不二一元論(アドヴァイタ) 自己と宇宙の根本は二つではなく一つだ、とするシャンカラの立場
ヴェーダ インド最古の聖典群
ウパニシャッド ヴェーダの奥義書。古いものは紀元前7〜3世紀頃。ヴェーダーンタ思想の源泉
ブラフマスートラ 紀元後2〜4世紀頃の綱要書。ウパニシャッドの教えを体系化した
シャンカラ 8世紀の思想家。不二一元論を完成させた
ラーマーヌジャ 11〜12世紀の思想家。限定不二一元論を説き、神との関係を重視した
マドヴァ 13世紀の思想家。神と個我を別とする二元論を説いた
サット・チット・アーナンダ 存在・意識・歓喜。ブラフマンの本性を表す定型句
ジーヴァンムクティ 生きながらの解脱
ヴィデーハムクティ 身体を離れた解脱
ブーマン 大なるもの・充ちあふれるもの。『チャーンドーギヤ』で幸福と結びつけられる
附託(アディヤーサ) 本当の自己に、自己でないものを重ねてしまうこと
我執(アハンカーラ) 「私」という思いへのこだわり
カルマとサンスカーラ 行為とその結果の力(カルマ)と、過去の行為が残す潜在的な傾向(サンスカーラ)
ジュニャーナ・ヨーガ 知のヨーガ。知ることによって解脱に至る道
四資糧 不二の教えを学ぶ前提となる四つの資格。識別・離欲・六つの徳・解脱への渇望
聴聞・思惟・深い瞑想 シュラヴァナ・マナナ・ニディディヤーサナ。師から聞き、考え抜き、深く瞑想する三段階
グル 師。ヴェーダーンタでは知の伝達に不可欠とされる
マハーヴァーキヤ 「大いなる言葉」。ウパニシャッドの中心的な聖句。「タット・トヴァム・アシ(それは汝である)」など
サンニヤーサ 遊行期。家を離れて放浪する出家の段階
マーヤー 幻。世界の現れをつくり出す力。「無価値」という意味ではない
プラサーダ 恩寵。神から与えられる恵み。有神論的ヴェーダーンタで重視される
ヴィヴェーカーナンダ 19世紀のインドの宗教家。ヴェーダーンタを欧米に紹介した
キーガン 成人の心の発達段階を研究した心理学者。段階3〜5の区分をこの資料は用いている

この思想が答える悩み(各思想からの悩み相談30から)

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