世界の思想と宗教の幸福観マップ

各思想からの悩み相談30 ・ 自分 17/30

なんとなく満たされない。何が足りないのか分からない

この悩みの形

この悩みの苦しさは、答えが見つからないことより、問いの立て方にあります。「何が足りないのか」という問いは、足りないものを見つけて足せば満たされる、という前提を含んでいます。これは開花型(伸ばす・手に入れる)の語彙で、世の中の標準的な答えもここに集まります。新しい趣味、資格、転職、旅行、人脈。試すたびに少し満ち、またすぐに空く。足しても埋まらないという経験そのものが、「足す」という前提がずれているサインかもしれません。

本マップでは、幸せの反対語を「渇き」と見る伝統(上座部仏教、エピクロス派)と、「無意味」と見る伝統(実存主義、ユング、ポジティブ心理学2.0)があります。前者は、満たされなさの正体を「もっと」が止まらない動きそのものと見ます。後者は、快や所有の不足ではなく、自分より大きなものとのつながりの不足と見ます。どちらも「足りないものを足す」とは別の道です。

さらに、幸せを直接追うと逃げる、という副産物型の知見があります。功利主義の体系を作ったJ.S.ミル(19世紀イギリスの哲学者)自身が、『自伝』第5章で「自分は幸福かと自問すれば、その瞬間に幸福ではなくなる」と書きました。「私は満たされているか」と問い続けることが、満たされなさを作っている部分があるかもしれません。以下、足す以外の語彙を、型ごとに並べます。

先に言っておきたいこと

「足すのをやめる」「欲を減らす」という伝統の言葉は、うつ状態の無気力や回避と、外からは区別がつきにくいものです。これらの伝統は、戒律・師・共同体のなかで実践されてきました。何をしても楽しくない、好きだったことに興味が湧かない、朝起きられない、という状態が二週間以上続いているなら、それは「知足」ではなく、医療の対象かもしれません。また、満たされなさを「自分の心の持ちようが悪い」と自己否定の材料にしないでください。本マップの伝統の多くは、満たされなさを欠陥ではなく、道の入口、あるいは人間の構造そのものと見ています。

各思想からの答え

除去・回復型——足すのをやめると、残っているものが見える

仏教(上座部)

『ダンマパダ』204偈に「健康は最上の利得、足るを知ることは最上の財、信頼できる人は最上の親族。そして涅槃こそ最上の楽である」とあります。上座部仏教(パーリ語の経典を用いる仏教の系統)は、満たされなさの正体を渇愛(かつあい。喉の渇きのように止まらない「もっと欲しい」)と見ます。手に入れても落ち着かないのは、手に入れたものが足りないからではなく、追いかける動きが止んでいないからです。これを引きつけると、欲しくなった瞬間に「今、追いかけているな」と気づくだけにしてみる、ということです。手放さなくてかまいません。まず動きを見ます。

エピクロス派

エピクロス派(古代ギリシャの哲学の学派)は、快は苦がなくなるところまで増え、そこで頭打ちになると考えました。快の限界は、苦痛を与えるものがすべて取り除かれたところにある、という教えです。欲望は三つに分かれます。自然で必要なもの(食事・睡眠・安全・友)、自然だが不必要なもの、空虚なもの(富・名声・権力)。今のあなたに置き直すと、「なんとなく足りない」が三つ目の欲望から来ているなら、それは限界のない欲望なので、足しても満ちません。一つ目が満たされているかだけを確かめる。満たされているなら、この伝統の基準では、あなたはすでに上限にいます。

新儒教

新儒教(宋の時代に儒教を哲学的に再構築した学派)は「孔子と顔回は何を楽しんでいたのか」という問いを千年近く考え続けました。王陽明(明の思想家)は『伝習録』で「楽は心の本体である。……常人も同じく持っている。ただ常人は持ちながら自ら知らず、かえって多くの憂苦を求めて自ら迷い棄てているのだ」と述べます。楽は獲得するものではなく、曇りが取れたときに回復する心の本来の状態です。満たされなさは「楽が足りない」のではなく「楽を覆っている何か」の問題だのです。外的な条件が良くない日に、それでも残っている静かな楽しみを一つ見つけて、名前をつけてみてください。

神道

神道は、決まった教義を持たず、人生に付着した「穢れ」(けがれ。生命力をくもらせるもの)を祓って本来の清らかさに戻る、という繰り返しを基本の形にします。「なんとなく心が濁って重い」という感覚に、神道は「くもり」という言葉を持っています。悪いところを直すのでも、足りないものを足すのでもなく、くもりを流すのです。あなたの場面で言えば、朝、水で顔と手を洗うときに「くもりを流す」つもりでやってみる、ということです。隠しごとのない素直な心(清き明き心)に戻る感覚を、儀礼として毎朝試してみてください。

副産物型——幸せを直接追わない

道家(老荘)

『荘子』至楽篇に「至楽は楽無く、至誉は誉れ無し」とあります。至上の楽しみとは、楽しみを追わないことだ、という逆説です。道家は、作為(わざとらしい努力)と目的意識から離れて、ものごとが自ずからそうなる働きに従うことを理想とします。「満たされるためにこれをする」という目的の紐をいったん外して、紐のない時間を持つのです。目的のない散歩、結果を評価しない手仕事。『荘子』はそれを逍遥遊(しょうようゆう。目的のない自由な遊び)と呼びました。

実存主義

フランクル(オーストリアの精神科医。強制収容所を生き延びた)は、幸福は追求できず、意味を見出した結果として後からついてくる、と述べました。実存主義は、満たされなさを快の不足ではなく、自分より大きなものとのつながりの不足と見ます。意味は与えられるものではなく、創り出すもの(創造価値)、体験するもの(体験価値)、変えられない状況にどんな態度をとるか(態度価値)の三つで実現されます。ここから言えるのは、「何が足りないか」ではなく「何に向かって自分を差し出すか」を問い直す、ということです。

ユング(分析心理学)

ユング(スイスの精神科医)は「幸せ」という言葉は悲しみと釣り合っていなければ意味を失う、と言いました。そして人生の後半は外的な達成ではなく、内的な全体性の課題に向かう時期だとしました。表向きはうまくいっているのに何かが欠けている、という感覚は、ユングの語彙では「人生の午後」の入口に現れるものです。今のあなたに置き直すと、欠けているのは外側の何かではなく、まだ生きていない自分の側面かもしれないのです。影(自分が認めたくない側面)を含めた全体になっていく過程で、満たされなさは意味を持ち始めます。

認識転換型——「足りない私」という前提を疑う

ヒンドゥー(ヴェーダーンタ)

ヴェーダーンタ(インド最古の聖典ヴェーダの哲学的解釈を行う学派)は、不幸の原因を「自分は小さく限られた存在だ」という思い込み(無明)に置きます。古い聖典ウパニシャッドは、小さなもののうちに幸福はない、大きなものだけが幸福だと述べ、有限なもののなかに幸福を探すこと自体を間違いと見ます。「私には何かが足りない」という自己規定を一つ書き出し、それが本当に自分の全部かを静かに眺める、ということです。答えを出さなくてかまいません。「足りない私」という輪郭が、思うほど固いものかどうかを疑ってみるだけです。

禅

臨済(9世紀中国の禅僧)は、何も外に求めることのない人こそ貴い人だ、わざとらしいことをせず、あたりまえでいよ、と説きました。禅では、外に向かって何かを求める心(求心)そのものが病です。求める心がやんだところを「無事」と呼びます。あなたの場面で言えば、皿洗いや掃除を「終わらせるため」ではなく、その動作そのものとして数分やってみるのです。幸せは探索の先ではなく、探索が止まった今の一動作のなかにある、というのが禅の答えです。ただしこれは「何も考えなくていい」という意味ではありません。

贈与・応答型——すでに受け取っているものを数える

仏教(浄土)

浄土教(阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称える仏教の流れ)では、幸せは自分で獲得するものではなく、すでに与えられている救いに気づき、安心して感謝のうちに日常を生きることです。親鸞(浄土真宗の開祖)は、自力のはからい(自分で何とかしようとする計らい)が消えること自体を救いの姿と見ました。「自分で満たさなければ」という前提を一日だけ外し、すでに受け取っているものを一つ数える、ということです。安心は獲得ではなく信頼から来る、という順番を体験してみてください。

キリスト教

キリスト教は、人間は自分の力だけでは本当の幸せに届かない存在で、幸せは贈り物(恩寵)として与えられる、と考えます。アウグスティヌス(4〜5世紀の神学者)は『告白』の冒頭で、人間の心は神のうちに安らうまで安らぎを得ない、と書きました。満たされなさは欠陥ではなく、人間がそういう構造で造られていることの現れだ、という見方です。ここから言えるのは、今日受け取ったもので、自分の力で得たのではないものを三つ書き出すのです。恩寵の感覚は、獲得ではなく気づきから始まります。

カバラ・ハシディズム

18世紀に東欧で広まったハシディズム(ユダヤ教の神秘主義的な大衆運動)は、神は隠れているがあらゆる場所に満ちている、と考えます。カバラの文献には、神から空いている場所はどこにもない、という考えが示されています。食事や労働という日常の行為のなかに、隠れた火花を見つけることが道です。そして憂鬱こそが最大の敵とされます。今のあなたに置き直すと、灰色に見える日常の一つ——食べる、歌う、働く——を、今日は「隠れているよいものを引き出す行為」として行ってみる、ということです。満たされなさは、場所ではなく覆いの問題かもしれません。

関係構成型——「私」が主語である限り埋まらない

仏教(大乗)

シャーンティデーヴァ(インドの僧)の『入菩提行論』は、世の不幸な者はみな自分の幸福を求めたゆえに、幸福な者はみな他者の幸福を求めたゆえにそうなった、と述べます。大乗仏教は、幸福の主語を個人から関係の場へ移します。「自分の幸せだけを目指すと、かえって空しくなる」という経験は、この伝統から見れば当然の帰結です。「自分が楽になること」と「誰かが楽になること」を対立させず、両方を同時に満たす小さな行動を一つ探すのです。

アイヌ

アイヌの世界観では、カムイ(熊・火・道具などに宿る神々。善いものも悪いものも含む)は動物や火や道具の姿でこの世に来ており、人がカムイを丁寧にもてなして送り返せば、また恵みを持って来てくれる、という贈り合いの循環が世界の豊かさの条件です。「ピリカ」という言葉は、良い食べもの・良い天気・良い気立て・良い運を一語で覆い、暮らしと心と自然の良さが分かれていません。あなたの場面で言えば、今日使うもの一つを「贈られたもの」として扱い、ていねいに使う、ということです。もらう・返すの循環のなかに自分を置いたとき、満たされなさの形が変わることがあります。

今日からできる三つのこと

試すなら、この中から一つ。伝統の実践(瞑想・行・祈り)の代わりではなく、考え方に触れるための小さな入口です。

  1. 欲しくなった瞬間を一日に一度だけ捕まえて、「今、追いかけているな」と心の中で言う。手放さなくていい。動きを見るだけ(仏教(上座部))
  2. 今日受け取ったもので、自分の力で得たのではないものを三つ書く。食べもの、天気、誰かの一言(キリスト教)
  3. 目的のない時間を三十分作る。結果を評価しない散歩か手仕事。満たされるためではなく、紐を外すために(道家(老荘))

こういうときは専門家へ

何をしても楽しくない(楽しめないこと自体が症状になります)、好きだったものに興味が湧かない、眠れない、食欲がない、身体が重い、死にたいとまでは思わないが消えてしまいたい——こうした状態が二週間以上続いているなら、「満たされない」は構えの問題ではなく、うつ病や持続性の抑うつ、あるいは甲状腺などの身体の病気のサインである可能性があります。心療内科・精神科、または各都道府県の精神保健福祉センターに相談できます。電話では、こころの健康相談統一ダイヤル(0570-064-556)、よりそいホットライン(0120-279-338。24時間)があります。消えてしまいたいという思いが具体的になってきたら、いのちの電話や#いのちSOS(0120-061-338)につないでください。伝統の言葉は、相談に向かう足を軽くするためのものです。

つらさが強いとき・「消えてしまいたい」と感じるときは、どうかひとりで抱えないでください。まもろうよ こころ(電話・SNSの相談窓口一覧)/よりそいホットライン 0120-279-338(24時間・通話無料)。
ひとこと足りないのではなく、追いかける手が止まっていないだけかもしれない。

この悩みを含む30の悩みは、PDFでも読めます:各思想からの悩み相談30(PDF)

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