世界の思想と宗教の幸福観マップ

各思想からの悩み相談30 ・ 自分 20/30

自分が嫌い

この悩みの形

「自分が嫌い」という言葉には、嫌う側の自分と、嫌われる側の自分がいます。一人の中に裁判官と被告が同居していて、裁判が終わりません。この悩みが苦しいのは、逃げ場がないからです。嫌いな人からは離れられますが、自分からは離れられません。朝起きたときから、嫌いな相手と一日中一緒にいることになります。

世の中の標準的な答えは「自己肯定感を上げよう」「自分を好きになろう」です。これは開花型(伸ばす・高める)の語彙で、しばしば届きません。「嫌いな自分を好きになれ」というのは、課題を一つ増やす言い方だからです。好きになれない自分が、新しく嫌いな自分の一部になります。自己肯定感の罠はここにあります。

本マップには、別の語彙があります。第一に、「嫌う対象としての固定した自分」がそもそも見つからない、と観察する伝統(上座部仏教の無我、禅)。第二に、嫌いな自分のままで、すでに受け取っているものがある、と見る伝統(浄土教の悪人正機、キリスト教の恩寵)。第三に、認めたくない自分の側面(影)を含めて全体になることが課題だ、と見る伝統(ユング、ポジティブ心理学2.0)。第四に、「自分」は一人で評価するものではなく、関係のなかで人になる、と見る伝統(Ubuntu、アドラー)。どれも「自分を好きになる」という課題を課しません。嫌いなままで始められる道です。

先に言っておきたいこと

最初に二つ、線を引いておきます。一つ目。伝統の言葉を、自分を責める道具にしないでください。仏教の「無我」は「お前は無価値だ」ではなく、固定した私が見つからないという観察です。浄土教の「悪人」は自分を貶める言葉ではなく、自力を頼めない人こそ救いの対象だという逆説です。キリスト教の「罪」は、自己嫌悪とは別のものです。この文章のどこかが「やはり自分は駄目だ」と読めたら、それは伝統の言葉ではなく、裁判官の声です。二つ目。「自分が嫌い」が、眠れない・食べられない・何をしても楽しくない・消えてしまいたい、という状態と一緒に二週間以上続いているなら、それは構えの問題ではなく、うつ病という医療の対象である可能性があります。伝統の言葉は、治療の代わりになりません。

各思想からの答え

贈与・応答型——嫌いな自分のままで、受け取っている

仏教(浄土)

『歎異抄』第3条に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。……他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」とあります。善人でさえ救われる、まして悪人はなおさらだ、という親鸞(浄土真宗の開祖)の逆説です。自分の善や努力を頼む心こそが救いの妨げで、自分を頼めない人がそのまま救いの対象になります。これを引きつけると、「自分を好きになってから」ではなく、嫌いなままで先に受け取っている、という順番です。阿弥陀仏の光は、おさめとって捨てない(摂取不捨)とされます。捨てないのは、あなたが立派だからではありません。

キリスト教

『マタイによる福音書』5:3-4に「幸いなるかな、心の貧しい者。天の国はその人たちのものである。幸いなるかな、悲しむ者。その人たちは慰められる」とあります。キリスト教は、人間は自分の力だけでは本当の幸せに届かない存在で、幸せは贈り物(恩寵)として与えられる、と考えます。今のあなたに置き直すと、自分が貧しく感じられることは、受け取る資格の欠如ではなく、受け取る側に立っているしるしだ、ということです。人の存在そのものが贈り物であり、自分を好きかどうかは、贈り物に付いた条件ではありません。

カバラ・ハシディズム

18世紀に東欧で広まったハシディズム(ユダヤ教の神秘主義的な大衆運動)は、常に喜びのうちにあることを大いなる戒めとし、憂鬱(アツヴート)を第一の敵としました。ただしそれは、苦しみが存在しないふりをすることではありません。ブレスロフ派では、絶望と喜びが互いを通じて深まる動きそのものが霊性の形です。自分を嫌う重さのなかで戦おうとしないで、小さな喜び(食べる、歌う、働く)の側から始めるのです。重さでは勝てず、敏捷さでしか勝てない、というのがこの伝統の見立てです。

認識転換型——「嫌いな自分」は固定した実体ではない

仏教(上座部)

上座部仏教(パーリ語の経典を用いる仏教の系統)の無我(むが)は、「自己は存在しない」という断定ではありません。体・感覚・表象・意志・認識のどこを探しても、変わらない「私」という実体が見つからない、という観察です。あなたの場面で言えば、「嫌いな自分」という固定した対象が、観察するとほどけていく、ということです。嫌いなのは、ある瞬間の行為、ある瞬間の感覚です。それを「自分」という一枚の看板にまとめているのは、渇愛(止まらない「こうあってほしい」)の働きです。まず、嫌う動きを見てください。手放さなくてかまいません。

禅

白隠(18世紀の臨済宗の僧)の『坐禅和讃』は「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし」と始まります。人はもともと仏であり、探し求める必要がない、という立場です。道元は、自己を学ぶとは自己を忘れることだ、と言いました。「自分」を評価の対象として固めるのをやめ、皿を洗う、歩く、坐るという今の一動作に戻るのです。嫌う主体も嫌われる客体も、動作のなかでは消えています。ただし「何も考えなくていい」という意味ではなく、徹底的に問い詰めた末の地点です。

ヒンドゥー(ヴェーダーンタ)

ヴェーダーンタ(インド最古の聖典ヴェーダの哲学的解釈を行う学派)は、不幸の根を「自分は小さく限られた存在だ」という誤認(無明)に置きます。本当の自己(アートマン)は、その限定より大きい、と考えます。ここから言えるのは、「私は〜な人間だ」という自己規定を一つ書き出し、それが本当に自分の全部かを静かに眺める、ということです。答えを出さなくてかまいません。「嫌いな自分」という輪郭が、思うほど固いものかどうかを疑ってみるだけです。本来の道は師のもとで聖典を聞くことなので、考え方だけに触れてください。

道家(老荘)

『荘子』は、善悪・美醜・是非といった区別は人間の視点が勝手に作ったものだと見抜きます(斉物論)。自分という意識を失うこと(喪我)を理想とします。今のあなたに置き直すと、「自分は駄目だ」という判定が、ある一つの視点からの区別にすぎない、と一度見てみるのです。無為(作為をやめること)は、自分を好きになろうと頑張ることではなく、裁く視点に力を貸すのをやめることです。『荘子』の理想は、目的のない遊び(逍遥遊)です。自分を裁く時間を、遊ぶ時間に一つ置き換えてみてください。

副産物型——影を含めて全体になる

ユング(分析心理学)

ユング(スイスの精神科医)は『哲学の木』で「人は光の像を思い描くことによってではなく、闇を意識化することによって明るくなる」と書きました。自分が認めたくない側面(影)を否認し、他人に投影することが、幸せを妨げます。「自分が嫌い」は、影と向き合う入口にあることが多い、というのがユングの見方です。嫌いな自分の性質を一つ挙げ、それを消そうとせずに、どんな場面で、何を守るために出てくるのかを眺める、ということです。影を含めた全体になっていく過程(個性化)に、幸福は悲しみと対で訪れます。

ポジティブ心理学2.0

ポジティブ心理学の内部から起こった修正運動は、明るい気持ちを増やすだけの幸せを浅いと見ます。悲しみや不安や自己嫌悪といった暗い面を否定せず、向き合い、そこに意味を見いだしたときに、静かな「成熟した幸せ」が生まれる、と考えます。妨げは暗い感情そのものではなく、それを否認することです。あなたの場面で言えば、自分を嫌う気持ちを消そうとせず、「この気持ちは自分に何を大切にさせているか」と一度だけ問うのです。ただし「苦は成長をもたらす」の一般化は、この伝統自身が戒めています。

実存主義

サルトル(フランスの哲学者)は、人間は自らつくるところのもの以外の何ものでもない、と言いました。自己は与えられた完成品ではなく、選択の積み重ねによって事後的に形づくられます。「嫌いな自分」は完成した判決ではなく、途中経過だ、ということです。フランクル(オーストリアの精神科医)は、変えられない状況のなかで自分の態度を選ぶ自由を、人間の最後の自由と呼びました。嫌いな自分を変えられない日でも、その自分にどんな態度をとるかは、まだあなたの手にあります。

関係構成型——「自分」は一人で裁くものではない

Ubuntu

南部アフリカのUbuntu(ズールー語などで「人であること」)では、人は人々を通して人になります。人格は一人で達成するものでも、一人で裁くものでもなく、他者の人間性を認め、認められる関係のなかで実現されます。ここから言えるのは、自分を嫌う裁判は、あなた一人の法廷で開かれていて、証人が呼ばれていないのです。あなたを人として扱う相手が一人いれば、その人の目に映るあなたは、法廷の被告とは別の人です。関係の網のなかに、評価を一度置いてみてください。

アドラー(個人心理学)

アドラー(オーストリアの医師)は、「自分はまだ足りない」という劣等感を、誰にでもある正常な感覚と見ました。問題はそれを口実に課題から逃げること(劣等コンプレックス)で、自分を嫌い続けることも、自分にだけ通用する理屈(私的論理)になりえます。勇気づけは、褒めることでも叱ることでもなく、課題に向かう力を持てるように関わることです。今のあなたに置き直すと、自分を好きになろうとする代わりに、誰かの役に立てた瞬間を一つ思い出す、ということです。貢献の感覚があるとき、劣等感は勇気に変わります。

北米先住民(Hózhó/Mino-Bimaadiziwin)

ディネ(ナバホ)のホジョーは、調和・美・健康・善を一語で包む言葉です。乱れ(不調和)が生じたとき、それは個人の欠陥ではなく関係全体の乱れとして現れ、儀礼によって回復されます。ラコタの祈りの結句は、すべては私の親族、という意味です。自分を嫌う状態を「私の欠陥」ではなく「私を含む関係の網の不調和」として読み、修復を自分一人の内側で完結させないのです。自分の境界は、皮膚のところにはありません。

除去・回復型——悪いところを直すのではなく、くもりを祓う

神道

神道にも罪や過ちという言葉はありますが、原罪(生まれながらに背負う罪)のような考え方は中心にありません。穢れ(けがれ。生命力をくもらせるもの)は、死や災いなどによって付着した状態であって、人格の欠陥ではありません。回復の中心は、悔い改めそのものより「祓う」こと、つまり更新です。あなたの場面で言えば、自分を嫌う気分を「直すべき欠陥」ではなく「くもり」として扱い、水で顔と手を洗って流す、ということです。あなたが悪かったかどうかを問わずに、くもりだけを落とせる。これが神道の回復の形です。

新儒教

王陽明(明の思想家)は、楽は心の本体であり、常人も同じく持っているが、持ちながら自ら知らず、かえって多くの憂苦を求めて自ら迷い棄てている、と述べました。厳しい言葉に聞こえますが、責めているのではありません。本体はもともと失われていない、と言っているのです。新儒教(宋の時代に儒教を哲学的に再構築した学派)では、幸せは獲得するものではなく、私欲という曇りが取れたときに回復する心の本来の状態です。自己嫌悪は「楽が無い」のではなく「楽を覆っている曇り」だのです。外的な条件が良くない日に、それでも残っている静かな楽しみを一つ見つけて、名前をつけてみてください。

今日からできる三つのこと

試すなら、この中から一つ。伝統の実践(瞑想・行・祈り)の代わりではなく、考え方に触れるための小さな入口です。

  1. 「自分が嫌い」を「〇〇をした自分が嫌い」「〇〇のときの自分が嫌い」に書き換える。看板を、瞬間と行為に分解する(仏教(上座部))
  2. 今日受け取ったもので、自分の力で得たのではないものを三つ書く。好きになってからではなく、嫌いなまま受け取る練習(仏教(浄土))
  3. あなたを人として扱ってくれる相手に、短い連絡を一本入れる。一人の法廷に、証人を一人呼ぶ(Ubuntu)

こういうときは専門家へ

次のサインがあるときは、構えではなく医療の対象です。眠れない、食べられない、何をしても楽しくない、自分は無価値だという考えが一日中頭を離れない、という状態が二週間以上続いている。消えてしまいたいと思う。死にたいと考える。死ぬ方法を具体的に考えたり調べたりしている。大切なものを人に譲る、身辺を整理するなど、別れの準備をしている。自分を傷つけている。これらは希死念慮(死にたいという思い)のサインで、意志の弱さではなく病気の症状として現れることがあります。心療内科・精神科、または各都道府県の精神保健福祉センターに相談できます。電話では、いのちの電話(ナビダイヤル 0570-783-556、24時間。フリーダイヤル 0120-783-556 は毎日16〜21時、毎月10日は8時〜翌8時)、#いのちSOS(0120-061-338)、よりそいホットライン(0120-279-338。24時間)、こころの健康相談統一ダイヤル(0570-064-556)があります。今すぐ危険があるときは119番です。一人で裁判を続けないでください。

つらさが強いとき・「消えてしまいたい」と感じるときは、どうかひとりで抱えないでください。まもろうよ こころ(電話・SNSの相談窓口一覧)/よりそいホットライン 0120-279-338(24時間・通話無料)。
ひとこと好きになってからではなく、嫌いなままで受け取る。そこから始められる。

この悩みを含む30の悩みは、PDFでも読めます:各思想からの悩み相談30(PDF)

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はぴテックの二枚の地図 発達段階×ウェルビーイング統合マップ → この幸福観マップの姉妹版。あちらは「縦に5段階を貫く翻訳辞書」で、同じ言葉が段階ごとに別の意味で聞こえる(875行×5段階)。