ユング(分析心理学)
幸福は追い求めるものではなく、影(自分が認めたくない側面)を含めた自分の全体を生きる個性化(自分らしい全体になっていく過程)の途上で、悲しみと対をなして訪れるもの
幸せを目標にすると、かえって逃げていく。人生の課題は幸せになることではなく、自分の中の認めたくない部分(影)も含めて、自分の全体を知り、自分自身になっていくこと(個性化)。その道の途中で、幸せは悲しみとセットになって、ときどき訪れる。ユングは「幸せという言葉は、悲しみと釣り合っていなければ意味を失う」と言った。
スイスの精神科医カール・グスタフ・ユング(1875-1961)が、フロイトと決別したのちに築いた心理学。人の心には本人が意識できる部分(自我)のほかに、個人的な無意識と、人類に共通する「集合的無意識」があると考え、夢や神話に現れるイメージ(元型)を手がかりに、意識と無意識を統合して「その人本来の全体」になっていく過程(個性化)を人生の課題と見た。禅や道教、チベット仏教にも早くから関心を寄せた。日本では河合隼雄によって紹介され、臨床心理学に大きな影響を与えた。性格検査MBTIはユングの類型論から派生したものだが、ユング自身の理論とは距離がある。
どれくらいの人が信じているか、学んでいるか
思想なので、信者数というものは存在しません。影響圏の代理指標としては、国際分析心理学会(IAAP。1955年設立)に所属する分析家がいます。MBTI(ユングの類型論に基づく性格検査)の年間受検者数は数百万人規模とされます(要確認)。日本では河合隼雄の著作を通じて、臨床心理学・教育・一般読者に広く浸透しています。
注意点として、この思想は人数の軸には置けません。MBTIの受検者はユングの思想の受容者ではありません。
ユング(カール・グスタフ・ユング。1875〜1961年。スイスの精神科医。フロイトと決別して「分析心理学」を築いた)の心理学で中心になる言葉は、個性化(インディヴィドゥアツィオーン。意識と無意識を統合し、その人固有の全体性を実現していく生涯の過程)です。関連する言葉として、自己(ドイツ語でゼルプスト。意識の中心である自我〈イッヒ〉と区別される、心の全体の中心)、全体性(ガンツハイト)、影(シャッテン。自我が認めたくない自分の側面)、ペルソナ(社会に向けた仮面)、元型(アルヒェティプス。集合的無意識に共通する心的イメージの型)、対立物の結合(ラテン語でコニウンクティオ・オッポシトールム)、意味(ジン)があります。
ユングは幸福を心理学の目標にしませんでした。1960年のインタビュー(ゴードン・ヤングによる「生きる術」)で幸福の条件を問われたとき、彼は五つを挙げました。①心身の健康、②親密な人間関係、③芸術と自然の美を感じる力、④妥当な生活水準と満足のいく仕事、⑤人生の変転に対処できる哲学的・宗教的な観点です。そのうえで、「幸福という語は、悲しみと釣り合わなければ意味を失う」「幸福を追い求めるほど手に入らない」と述べています。
彼の体系の中心は個性化です。自我が、影・アニマとアニムス(心の中の異性像)・自己といった無意識の内容と向き合い、対立するものを統合して全体性へ向かう生涯の過程です。そこで問われるのは幸福ではなく意味です。人生の後半は外的な達成ではなく内的な全体性の課題に向かうべきだとされ、「意味のない人生に人は耐えられない」と語られます。幸福は、この統合の副産物として、不幸と対をなす形でしか現れません。したがってユングの幸福観は、開花(全体性の実現)と副産物(幸福を目標にしない)の二つの性格を併せ持ちます。一言でいえば、幸福は追い求めるものではなく、影を含めた自分の全体を生きる個性化の途上で、悲しみと対をなして訪れるもの、という考えです。
幸せを妨げるもの
幸せを妨げるものとして、まず一面性(意識が一方の極に偏ること)があります。次にペルソナとの同一化(社会的な仮面を自分自身だと思い込むこと)、影の否認と投影(自分の暗い側面を認めず、他人の中に見てしまうこと)、集合的規範への埋没があります。さらに、人生の前半の価値(達成・拡張)を後半まで引きずること、そして意味の喪失が挙げられます。
ユングは「神経症は正当な苦しみの代用品である」と述べました。つまり、苦しみを回避すること自体が妨げになるのです。この思想で幸せの反対にあたる言葉は、一面性・ペルソナとの同一化・意味の喪失、つまり「無意味」だと整理できます。
瞑想・観想学習・思索
実践の中心は夢の分析です。連想と拡充法(夢のイメージを神話や象徴と照らし合わせて広げていく方法)を使います。次にアクティブ・イマジネーション(能動的想像法。無意識のイメージと意識的に対話する技法)があります。分析家との長期の対話(分析)も基本です。さらに、神話・宗教・錬金術(れんきんじゅつ。中世の化学的・神秘的な技術体系。ユングは心の変容過程の象徴として読みました)の象徴を、自分の心の過程の鏡として読むことがあります。人生の後半における価値の転換、絵画やマンダラ(円形の図像)による芸術的表現も実践に含まれます。日本では箱庭療法(河合隼雄がカルフから導入した、砂の入った箱に小さな人形などを置いて心を表現する技法)が代表的な派生技法です。
幸せはどこで実現するのでしょうか。心の全体、つまり意識と無意識の両方です。個人の内面が中心ですが、集合的無意識(個人の経験を超えて人類に共通する無意識の層)を通じて、人類的・宇宙的な次元に開かれています。社会制度には置かれません。
いつ実現するのでしょうか。生涯にわたる過程であり、個性化は完結しません。とくに人生の後半(40歳前後以降)を内面化の時期として重視します。また共時性(シンクロニシティ。因果関係はないのに意味のある偶然の一致が起こること)の概念によって、時間を原因と結果で理解する見方を相対化しています。まとめると、対立物を統合して全体性へ向かう過程であり、幸福はその副産物とする統合・全体性モデルです。監査後の分類では、主として副産物型(幸福について)、副として開花型(個性化の過程そのもの)とされました。実践の形は瞑想・観想と学習・思索に分類されます。
「私」と世界の境目
ユングの自己観は二層です。自我(エゴ。意識の中心)と自己(セルフ。心全体の中心)を区別します。自己は自我より大きく、個人的無意識と集合的無意識を含みます。晩年のウヌス・ムンドゥス(ラテン語で「一なる世界」。心と物質が深いところでは一つだという考え)と共時性の概念では、心と物質の区別も深層で相対化されます。
「私」と世界の関係の型で言えば、関係型であり、深層に融合の背景を持ちます。主体と客体の境界は心の深層で溶けますが、自我の解体は目指されません。むしろ自我の強さが個性化の前提です。自我は保持しつつ、自己は個人的・集合的無意識を含む、という構造です。
境遇(運)と、努力か贈与か
境遇については「部分的に独立」です。外的な運命は変えられませんが、それにどう向き合うかが個性化の課題です。共時性は、運を意味の側から読み替えようとする試みでもあります。
努力か贈与かについては「両輪」です。無意識は夢と象徴を通じて「与える」側であり、意識はそれを受け止め統合する「努力」の側です。どちらか一方だけでは個性化は進みません。
苦しみの位置
苦しみは必要条件です。『心理学と宗教』(1938年)に「神経症はつねに正当な苦しみの代用品である」という言葉があります。影の統合は苦痛を伴い、それを回避することがかえって病を生みます。幸福は悲しみと対でしか意味を持たない、というのがユングの立場です。
目盛りの定義は 17のマップ の各「目盛りの定義」を参照。
ヘドニア/エウダイモニア、三分類の枠組み
現代の幸福研究では、幸せをヘドニア(快と満足としての幸福)とエウダイモニア(人間としての機能の発揮としての幸福)に分けることがあります。ユングはエウダイモニア寄りですが、変則的です。「機能の発揮」ではなく「全体性の実現」であり、影や苦しみの統合を含む点で、明るい開花モデルとは方向が違います。ヘドニアは明示的に退けられます。
もう一つの枠組みとして、快楽説(快が善)/欲求充足説(望みが叶うことが善)/客観的リスト説(快や望みとは独立に、良いものの一覧がある)という三分類があります。ユングは客観的リスト説の変種で、リストの中身は全体性・意味・対立物の統合です。ただし何が全体性かは個人ごとに異なるとされ、普遍的なリストを拒みます。
前野4因子との相性(やってみよう=○ ありがとう=△ なんとかなる=△ ありのままに=◎)
前野隆司(幸福学の研究者)の4因子との相性は次のとおりです。
ありのままに(独立と自分らしさ)=◎(とてもよく合う)。ペルソナから離れて自分自身になる個性化そのものだからです。
やってみよう(自己実現と成長)=○(合う)。個性化は能動的な過程です。
ありがとう(つながりと感謝)=△(一部合う)。関係は主題になりますが、中心ではありません。
なんとかなる(前向きと楽観)=△(一部合う)。楽観は一面性として警戒されます。
生きとし生けるものの幸せ(△ 人間が中心)
生きとし生けるものへの配慮は△(一部含まれる)です。集合的無意識とウヌス・ムンドゥス(一なる世界)は、人間を超えた全体を含意します。しかし動植物の幸福は主題になりません。自然との関係は象徴(元型)として扱われます。
研究でどこまで確かめられているか
研究の裏づけは「少」です。派生的な類型検査は多いのですが、理論の直接検証はほぼありません。
①ユング派心理療法の効果研究として、レスラー(Roesler)の2013年のレビューが長期的な症状改善を報告しています。しかし無作為化対照試験(参加者をくじ引きで振り分けて比較する、最も信頼性の高い実験方法)はほぼなく、研究の質は低いです。②MBTIの心理測定研究では、ピッテンジャー(Pittenger)の2005年の論文など、信頼性・妥当性の不足を指摘する研究が多くあります。幸福との関連研究は、類型論の妥当性そのものが前提を欠いています。③人生後半の意味への転換については、カーステンセン(Carstensen)の社会情動的選択性理論(1999年。加齢とともに優先順位が内面と意味へ移るという理論)がユングの主張と構造的に整合しますが、直接の検証ではありません。④畏敬(いけい)や自己超越の研究と元型論の対応づけは思弁的です。
注意点として、ユング理論の中核概念は操作的定義(測定できる形での定義)を持たず、検証可能性の水準が幸福研究とは異なります。
どこから来て、どこへ流れたか
どこから来たか。フロイト(精神分析の創始者。1913年に決別)、カント、ショーペンハウアー、ニーチェ(いずれもドイツの哲学者。ユングは1934〜39年に『ツァラトゥストラ』のセミナーを開きました)、ゲーテの『ファウスト』、グノーシス主義(古代の神秘的な宗教思想)と錬金術から影響を受けています。東洋思想の影響も大きく、ヴィルヘルム(リヒャルト・ヴィルヘルム。ドイツの中国学者)訳の『黄金の華の秘密』(1929年)、鈴木大拙(すずき・だいせつ。日本の仏教学者)の『禅仏教入門』への序文(1939年)、『チベット死者の書』、ヨーガに関わりました。
どこへ流れたか。トランスパーソナル心理学(個人を超えた意識の領域を扱う心理学)、MBTI(ブリッグスとマイヤーズによる性格検査)、12ステップ(依存症からの回復プログラム。ユングは1961年にビル・Wへ書簡を送りました)、ジョゼフ・キャンベルの神話学、河合隼雄(かわい・はやお。日本の臨床心理学者)を通じた日本の臨床心理学と箱庭療法、そしてニューエイジ言説(ユング自身の意図とは別)へ流れました。
発達段階論から見ると
キーガン(成人の心の発達段階を研究した心理学者)の段階論では、段階3(周囲に合わせる自己)、段階4(自分の基準を持つ自己)、段階5(自分の枠組みを相対化できる自己)と進むと考えます。ユングは、人生前半(自我の確立=段階4的)と後半(自我を相対化し自己へ向かう=段階5的)を分ける点で、成人発達理論と最も構造が似た深層心理学です。
ただし個性化の目標は自己の複雑化ではなく、対立物の統合(全体性)です。そのためキーガンの段階と一対一には対応しません。器(実践を運営する自己のあり方)は持たず、分析家との二者関係のみです。「無意識との対話」を段階として測る枠組みはキーガンにはありません。発達段階マップでは、器=なし、目標(目指す自己のあり方)=段階5と記されています。なお、高い段階ほど良いという読みはしません。
型は【見方を変える/副産物として待つ】です。幸福を目標にしない介入の原型といえます。具体的には、人生後半の価値転換(達成から意味へ)、影の統合(自分の認めたくない側面を扱う)、夢・イメージ・物語を用いた自己理解です。組織向けには、キャリア後半の「内面化」を支援する枠組みや、類型論を「固定ラベル」ではなく「一面性への気づき」として使う設計が対応します。
注意点があります。MBTIを配属・評価に使うことは、心理測定的に正当化されません。元型や共時性を介入の根拠にしてはいけません。
安全装置師の監督・段階的伝授教義上の警告(魔境・慢心・偽の悟り)
タグは「師・警」です。師=訓練された指導者のもとで行う、警=危険を警告する、という意味です。
具体的には、分析家の訓練と教育分析(分析家自身が分析を受ける義務)が安全装置です。ユング自身、無意識との直面が自我の膨張(インフレーション。自分を過大に感じてしまうこと)や精神病的な崩壊を招く危険を繰り返し警告し、能動的想像法は分析家の監督下でのみ行うよう戒めました。『赤の書』(ユングが自らの無意識との対話を記録した書。2009年公刊)の体験は、師なしでは危険とされます。
誤解されやすい点
①ユングは幸福を否定したのではなく、目標にすることを退けました。「幸福の五条件」は求められて挙げた常識的な条件であり、彼の理論の中核ではありません。
②MBTI=ユングではありません。MBTIは母娘(ブリッグスとマイヤーズ)による派生であり、心理測定的な信頼性・妥当性は低いと繰り返し批判されています(再検査で類型が変わる割合が高い)。
③「元型」「集合的無意識」を遺伝的・生物学的な事実として語ってはいけません。ユング自身の記述も揺れており、経験的な検証はできていません。
④「シンクロニシティ」を超常現象の肯定として読んではいけません。
⑤日本でのユング像は河合隼雄の解釈を強く帯びています。河合の「中空構造」論(日本の神話や文化の中心が空であるという論)などは河合の独自の展開です。
⑥禅・道教への言及は、西洋人向けの警告(「東洋の方法を模倣するな」)とセットで読む必要があります。
学者の間で議論があること
①ユング心理学は科学か。元型や集合的無意識は検証できないという問題があります。
②宗教との関係。神学の側からは「心理学主義」(宗教を心理現象に還元した)という批判があり、心理学の側からは逆に神秘主義に傾きすぎたという批判があります。
③1930年代のナチ政権期の言動の評価。国際精神療法学会会長としての立場や、「ユダヤ的心理学」への言及が問われています。
④『赤の書』(2009年公刊)以降のユング像の見直し。シャムダサーニ(Shamdasani。ユング研究者)の仕事が中心です。
⑤MBTIはユングの類型論の正統な発展か、それとも歪曲か。
⑥東洋思想の受容。鈴木大拙やヴィルヘルムとの交流と、西洋人が東洋の方法を模倣することへの警告とが、どう両立するのか。
こんなときに:表向きはうまくやっているのに、何かが欠けているとき。認めたくない自分(影)と向き合いたい人に。
小さな入口:自分が強く嫌う他人の性質を一つ挙げ、それが自分の中にもないかを静かに眺める。幸せは影を含めた全体になる過程で訪れる。
この思想が出てくる悩み:「何のために生きているのか分からない。空しい」
判定が近い思想:ポジティブ心理学2.0・ニーチェ・キュニコス派・ピュロン主義 → 思想の近さマップ
幸せな人生にも一定の暗さは欠かせないし、「幸せ」という言葉は、悲しみと釣り合っていなければ意味を失うだろう。
幸福の五条件を挙げた直後の言葉。幸福は悲しみと対でしか意味を持たない、というユングの幸福観を最も端的に示す。
神経症はつねに、正当な苦しみの代用品である。
苦しみを回避することがかえって病を生む。影の統合に伴う苦は必要条件だ、というユングの苦の位置づけ。
個性化とは「分割できないもの」になることであり、個性が私たちの最も内なる、最後の、比類ない独自性を含む限り、自分自身の自己になることをも意味する。
ユング心理学の中心課題である個性化の定義。幸福ではなく「自分自身になること」が人生の目標に置かれる。
人は光の像を思い描くことによってではなく、闇を意識化することによって明るくなる。
影(自分が認めたくない側面)の意識化こそ道であるという逆説。明るさだけを増やす幸福論への、ユングからの対置。
人生の午後にもそれ固有の意味がなければならず、人生の午前の哀れな付け足しであってはならない。
人生後半は外的達成ではなく内面化と意味の課題に向かうべきだ、というユングの生涯観。個性化の時間軸を示す。
主な典拠:Jung, C. G. (1928) Die Beziehungen zwischen dem Ich und dem Unbewussten(『自我と無意識の関係』CW 7)/Jung, C. G. (1938) Psychology and Religion(『心理学と宗教』CW 11。「神経症は正当な苦しみの代用品」§129)/Jung, C. G. (1934/1954) Über die Archetypen des kollektiven Unbewussten(CW 9i)/Jung, C. G. & Jaffé, A. (1962) Erinnerungen, Träume, Gedanken(『ユング自伝』)/Young, G. (1960) The Art of Living(インタビュー。McGuire, W. & Hull, R. F. C. (eds.) (1977) C. G. Jung Speaking, Princeton UP に収録。幸福の五条件と「幸福は悲しみと釣り合わなければ意味を失う」)
参考文献:Samuels, A. (1985) Jung and the Post-Jungians, Routledge/Shamdasani, S. (2003) Jung and the Making of Modern Psychology: The Dream of a Science, Cambridge UP/Stein, M. (1998) Jung's Map of the Soul, Open Court/Bair, D. (2003) Jung: A Biography, Little, Brown/Clarke, J. J. (1994) Jung and Eastern Thought: A Dialogue with the Orient, Routledge/河合隼雄『ユング心理学入門』培風館、1967
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