世界の思想と宗教の幸福観マップ

各思想からの悩み相談30 ・ 人間関係 16/30

職場の人間関係に疲れた

この悩みの形

職場の人間関係がつらいのは、相手を選べないからです。友人は選べますが、上司も同僚も取引先も、あなたが選んだ人ではありません。しかも一日の大半をその人たちと過ごします。選べない関係に人生の時間のいちばん大きな部分を預けている。この構造が、まず苦しさの土台です。

本マップで幸せの主語を「関係の場」に置く伝統は多数派です。「人は関係のなかで人になる」と言う伝統がたくさんあります。それなのに、なぜ関係で疲れるのでしょうか。多くの伝統が語る「関係」は、家族・友・共同体のように、役割と人格が重なり合う厚い関係です。職場の関係はそれより薄く、役割だけでつながっています。役割だけの関係に、人格まるごとで応じようとすると疲れます。逆に、役割だけの相手に人格まるごとを否定されたように感じると、傷が深くなります。つまり苦しさの構造は、「役割」と「人格」の線引きが曖昧になっていること、そして関係の網が職場一本に集中していること、この二つにあります。

世の中の標準的な答えは「コミュニケーション力を上げる」「気にしない力をつける」「我慢する」の三つで、どれも開花型(自分を伸ばして乗り越える)の語彙です。これが届かないのは、疲れている人にさらに努力を求める形になっているからです。47の伝統のうち開花型は少数派で、残りは伸ばす以外の言葉を持っています。以下、型ごとに並べます。

先に言っておきたいこと

ここに挙げた言葉を、害のある関係に耐える理由にしないでください。人格を否定する言葉、無視、過大な要求、私生活への侵入は、「気にしない力」の対象ではなく、ハラスメントという制度の対象です。ストア派の「判断を変える」も、浄土教の「凡夫のまま」も、出口へ向かう足を軽くするための言葉であって、出口を閉じる言葉ではありません。儒教は、道が行われていない場所に身を置かないことを、逃避ではなく君子の判断と見ています。多数派の伝統はまず「害を与える場なら離れよ」と言っています。

各思想からの答え

認識転換型——相手は動かせない、判断は動かせる

ストア派

エピクテトス(ローマ時代のストア派の哲学者。元奴隷)の『提要』5に「人を動揺させるのは物事そのものではなく、物事についての判断である」とあります。ストア派は世界を「自分次第のもの」と「そうでないもの」に分けます。上司の機嫌、同僚の性格、評価は自分次第ではなく、自分次第なのは判断と行動だけです。これを引きつけると、「あの人を変えよう」に注ぐ力を「自分はどう振る舞うか」に戻す、ということです。マルクス・アウレリウス(ローマ皇帝)は『自省録』2.1に「私たちは協働のために生まれた。両足のように、両手のように」と書きました。同僚を好きにならなくても、同じ職場の「両手」として扱える、という構えです。

道家(老荘)

道家は、押すほど閉じる、という構造を最初から知っています。無為(むい)は何もしないことではなく、わざとらしい介入をやめることです。合わない相手と「分かり合おう」「関係を良くしよう」と働きかけるほど、相手は固くなり、あなたは消耗します。今のあなたに置き直すと、関係を良くする努力をいったん止めてみるのです。挨拶と業務連絡だけにして、空いた隙間を埋めない。『荘子』が言う「安時処順」(その時その状況に安んじること)は、諦めではなく、流れに逆らわないという選択です。

キュニコス派・ピュロン主義

ピュロン主義(判断を保留する古代の懐疑主義)は、「これは本性上悪いことだ」という信念を手放したとき、苦しみが軽くなると言います。「あの人は私を嫌っている」「あの態度は許せない」——出来事そのものより、その上に乗せた断定が苦しさを作っている場合があります。断定を一つ保留してみる、ということです。「嫌われているかもしれないし、そうでないかもしれない」で止める。判断を止めたあとに、影のように静けさがついてくる、というのがこの伝統の逆説です。

関係構成型——役割と人格を分けて、網を増やす

儒教(原始)

『論語』学而篇の冒頭に「人知らずして慍みず、亦君子ならずや」(慍む=うらむ)とあります。人に認められなくても腹を立てない人が君子だ、という意味です。儒教は、人は「名」(父・子・君・臣といった役割)のなかで自己が構成されると考えます。あなたの場面で言えば、職場であなたが負っているのは役割であって、人格の全部ではないのです。役割のなかで徳を修めることと、その人に人格を好かれることは別です。認められないことと、人として否定されることも別です。この線を引き直すだけで、持ち帰る疲れの量が変わります。

アドラー(個人心理学)

アドラー(オーストリアの医師。個人心理学の創始者)の考えを岸見一郎が再構成した「課題の分離」が最初です。相手があなたをどう思うかは相手の課題で、あなたの課題ではありません。あなたの課題は、仕事・交友・愛という人生の課題に、共同体の役に立つ方向で取り組むことです。評価や好悪ではなく「今日、誰の役に立ったか」を一日の物差しにする、ということです。ただし課題の分離は、関係から撤退することではありません。アドラー自身は、他者の目で見、他者の耳で聞き、他者の心で感じることを、共同体感覚の訓練としています。

Ubuntu

南部アフリカには、人は人々を通して人になる、という定型句があります。Ubuntu(ズールー語などで「人であること」)では、人格は生まれつきの資格ではなく、関係のなかで達成されるものです。ここから言えるのは、職場の人間関係が人格を削る場になっているなら、あなたを「人にしてくれる関係」が別に一本要るのです。家族、旧友、習い事、オンラインの仲間。人数ではなく、あなたを人として扱う関係が一本あるかどうかです。なお、Ubuntuの名による同調圧力は当事者の研究者自身が指摘する危険で、「みんな仲良く」の圧力に使う言葉ではありません。

マオリ

マオリ(ニュージーランドの先住民)の健康モデル「テ・ファレ・タパ・ファー」は、幸せを「四つの壁をもつ家」にたとえます。霊性・心・身体・家族の四本の柱が均衡して家が立ち、土地がそれを支えます。今のあなたに置き直すと、職場があなたの家のどの柱を揺らしているかを見る、ということです。職場が揺らしているのは、たいてい一本か二本です。残りの柱——身体、家族、自分を超えるものとの関係——が立っていれば、家は倒れません。倒れそうなときは、揺れている柱ではなく、まだ立っている柱を先に支えます。

除去・回復型——足すのをやめ、くもりを祓う

仏教(上座部)

上座部仏教(パーリ語の経典を用いる仏教の系統)は、苦しみの正体を渇愛(かつあい。止まらない「もっと欲しい」「これは嫌だ」)と見ます。「認められたい」「嫌われたくない」「あの人に分かってほしい」も渇愛です。職場の苦しさの多くは相手の言動が作っていますが、「認められたい」という火が少し燃料を足している部分もあります。相手を変える前に、「今、認められたがっているな」と気づくだけにするのです。手放さなくてかまいません。まず動きを見る。四念処(しねんじょ。体・感覚・心・ものごとを観察する瞑想)は、そのための方法です。

エピクロス派

エピクロス派(古代ギリシャの哲学の学派)は欲望を三つに分けます。自然で必要なもの(安全・睡眠・食事・友)、自然だが不必要なもの、空虚なもの(名声・権力・評判)。「職場で好かれること」「全員とうまくやること」は三つ目に近い欲望で、限界がありません。あなたの場面で言えば、職場で満たすべきは一つ目だけだ、ということです。安全に働け、眠れて、食べられて、一人でも話せる人がいる。それが満たされているなら、この伝統の基準では、あなたはすでに足りています。「隠れて生きよ」という標語は、全員と深くつながらなくてよい、という許可です。

神道

神道は、人生に付着した「穢れ」(けがれ。生命力をくもらせるもの)を祓って本来の清らかな状態に戻る、という繰り返しを基本の形にします。反省や悔い改めではなく「祓う」のが回復の方法です。職場で浴びた言葉や空気を、家に持ち込む前に一つの儀礼で区切るのです。帰り道の手洗い、着替え、入浴、散髪。「悪いところを直す」ではなく「くもりを流す」つもりでやる。内面の罪責感がないのが神道の特徴で、あなたが悪かったかどうかを問わずに、くもりだけを落とせます。

贈与・応答型——がんばらないところから始まる

仏教(浄土)

浄土教(阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称える仏教の流れ)がまず扱うのは、「自分で何とかしなければ」という自力のはからいです。人はもともと、欲や怒りを断てない凡夫(ぼんぶ)で、そのままで救われている。ここから言えるのは、人間関係を自分の力で円満にしなければ、という前提をいったん外す、ということです。あなたも凡夫で、相手も凡夫です。相性の悪さを、あなたの徳の不足として引き受けなくてかまいません。すでに受け取っているものに気づくことが先で、努力はお礼として後からついてきます。

ユダヤ教

『バビロニア・タルムード』シャバット31aに、ヒレル(紀元前後のユダヤ教の教師)の言葉として「自分にとって嫌なことを、隣人にするな。これがトーラーの全体であり、あとはその注釈だ」とあります。ユダヤ教は幸せを個人の内面ではなく、契約のなかで隣人と正しく関係することに置きます。同時に安息日は「休んでもいい日」ではなく「休まなければならない日」です。今のあなたに置き直すと、職場の関係に対するあなたの義務は、嫌なことをしないという一線までで、好かれることまでは含まないのです。そして週に一日、職場の人の顔を思い出さない日を、掟として持つことです。

シク教

シク教(15〜16世紀のインド北西部でグル・ナーナクが開いた宗教)の道は、神の名を唱える・正直に働く・得たものを分かち合う、の三本柱を同時に回すことです。ランガル(誰でも同席して同じものを食べる共同の食堂)は、上下関係を一時的に解除して平等を実演する場です。働くことと、分かち合うことと、自分を超えるものを思い出すことを、別々にしない、ということです。職場が「働く」だけの場になり、分かち合いも想起も消えたとき、人は役割の摩擦だけを感じるようになります。小さな分かち合い(差し入れ、情報、時間)を一つ戻してみてください。

制度・集計型——構えの問題ではなく、環境の問題

ケイパビリティ・アプローチ

セン(インド出身の経済学者)とヌスバウム(アメリカの哲学者)のこの考え方は、人の生の良さを、満足度ではなく「価値ある生き方を実際に選べる自由の幅」で測ります。そして、長く抑圧された人は望みの水準自体を下げてしまう(適応的選好)ので、本人の「まあ大丈夫です」では剥奪が隠れる、と指摘します。あなたの場面で言えば、「気の持ちよう」で片づける前に、あなたが実際に選べる働き方の幅がどれだけ狭められているかを見るのです。席替え、担当替え、異動、在宅、転職。幅を広げるのは、本人の構えではなく、制度と周りの仕事です。

ポジティブ心理学3.0

ポジティブ心理学の最新の展開は、幸せを個人の中だけでなく、職場・家族・地域・制度というシステムのなかで立ち上がるものと見ます。苦しみは個人の欠陥ではなく、システムの不均衡のシグナルです。あなたが疲れているのは、あなたの対人スキルの問題ではなく、職場というシステムの結び目のどこかが固くなっているサインだ、ということです。人員、評価の仕組み、上司の上司との関係。あなたが一番負担のかかる結び目に立っていたから、そこに疲れが現れただけかもしれません。それは弱さではなく、位置の問題です。

今日からできる三つのこと

試すなら、この中から一つ。伝統の実践(瞑想・行・祈り)の代わりではなく、考え方に触れるための小さな入口です。

  1. 今日の出来事を一つ選び、「相手の課題」と「自分の課題」に紙の上で分けてみる。自分の課題に入ったものだけを、明日の行動にする(アドラー(個人心理学))
  2. 帰宅前に一つ、区切りの儀礼を決める。手を洗う、着替える、駅までの道を一本変える。職場の空気を家に持ち込まない合図にする(神道)
  3. 職場の外で、あなたを「役割」ではなく「人」として扱う相手に、短い連絡を一本入れる。関係の網を、職場一本から二本にする(Ubuntu)

こういうときは専門家へ

出勤前に身体が動かない、眠れない、食べられない、特定の人の顔を見ると動悸がする、休日も職場のことが頭を離れない——これらは構えの問題ではなく、医療の対象です。心療内科・精神科は、辞める前でも受診できます。人格否定、無視、過大な要求、私生活への侵入が続いているなら、パワーハラスメントの類型にあたります。社内のハラスメント相談窓口、産業医、総合労働相談コーナー(都道府県労働局。無料・予約不要)、労働基準監督署に相談できます。日時と言葉の記録が、どの窓口でも役に立ちます。法的な対応は法テラスが窓口です。伝統の言葉は、制度に向かう足を軽くするためのものであって、制度の代わりにはなりません。

つらさが強いとき・「消えてしまいたい」と感じるときは、どうかひとりで抱えないでください。まもろうよ こころ(電話・SNSの相談窓口一覧)/よりそいホットライン 0120-279-338(24時間・通話無料)。
ひとこと役割は檻ではなく、人格の全部でもない。網をもう一本、職場の外に。

この悩みを含む30の悩みは、PDFでも読めます:各思想からの悩み相談30(PDF)

つながり ほかの保存版コレクションから、内容の近いもの

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はぴテックの二枚の地図 発達段階×ウェルビーイング統合マップ → この幸福観マップの姉妹版。あちらは「縦に5段階を貫く翻訳辞書」で、同じ言葉が段階ごとに別の意味で聞こえる(875行×5段階)。