マオリ
先祖から受け継いだ関係とマナ(人や物に宿る霊的な力・威信)を保ち、四つの柱(身体・心・家族・霊性)が均衡する状態
ニュージーランドのマオリの健康観。幸せを「四つの壁をもつ家」にたとえ、霊性・心・体・家族という四つの柱が均衡してはじめて家が立ち、そのすべてを土地が支える、と説明する。一つが崩れれば全体が傾く。祖先から受け継いだ関係が土台で、国の予算編成の枠組みにも取り入れられている珍しい例。
ニュージーランドの先住民マオリの健康・幸福の考え方。1984年にマオリの精神科医メイソン・デュリーが「四つの壁をもつ家」というモデルにまとめ、同国の保健政策に正式に採用された。財務省の予算編成の枠組みにも組み込まれ、先住民の幸福観が国家制度になった世界でも珍しい例。マオリ人口は約90万人。
どれくらいの人が信じているか、学んでいるか
ニュージーランドのマオリ人口は約90万人規模(同国人口の約17%)です。ただし、テ・ファレ・タパ・ファーは国家の保健政策に採用されており、影響の範囲は同国全体に及びます。
補足があります。テ・クペンガ2018(統計局によるマオリのウェルビーイング調査)は、先住民の幸せを先住民の枠組みで測る数少ない公式統計です。成人マオリの69%が「自然環境の健全さは非常に重要」と回答しています。
マオリ(Māori。アオテアロア/ニュージーランドの先住民)の幸せの考え方です。マオリ語(te reo Māori)は同国の公用語です。中心となるモデルは、テ・ファレ・タパ・ファー(Te Whare Tapa Whā。「四つの壁をもつ家」)です。デュリー(Sir Mason Durie。マオリの精神科医で、ランギターネなどの部族出身の当事者研究者)が1984年に定式化しました。このモデルは、ニュージーランド財務省の福祉枠組みヘ・アラ・ワイオラ(He Ara Waiora)や、統計局の調査テ・クペンガ(Te Kupenga。2018年実施)に組み込まれています。幸福の概念が国家の政策に実際に組み込まれている、珍しい例です。
大切な言葉をいくつか挙げます。ファナウンガタンガ(whanaungatanga。関係、親族性、家族的なつながりの感覚)は、テ・アカ(Te Aka。マオリ語辞書)によれば「共有された経験と協働を通じて生まれ、人々に帰属感を与える関係」で、親族上の権利と義務を通じて発展します。ファカパパ(whakapapa。系譜・系図・血統)は、動詞としては「層に重ねる、正しい順序で唱える」という意味です。マナ(mana。権威・威信・霊的な力)、フェヌア(whenua。土地)があります。フェヌアは同時に「胎盤」を意味する言葉でもあり、この二重性が土地と生命の結びつきを言語のレベルで示しています。
テ・ファレ・タパ・ファーの四つの壁は、タハ・ワイルア(taha wairua。霊的な側面)、タハ・ヒネンガロ(taha hinengaro。精神的・情緒的な側面)、タハ・ティナナ(taha tinana。身体的な側面)、タハ・ファーナウ(taha whānau。家族・社会的な側面)です。土台はフェヌア(土地)です。
この枠組みにおけるウェルビーイング(幸せと健やかさ)は、身体的な健康に還元されない、多次元的な均衡の状態です。四つの壁が均衡してはじめて家が立ち、そのすべてを土地が支えます。どれか一つが崩れれば、全体が傾きます。この均衡は個人の努力だけで達成されるものではありません。ファカパパによって先祖から受け継いだ関係と、ファナウンガタンガによって現に維持されている関係に依存します。財務省のヘ・アラ・ワイオラはこれを政策の言葉に翻訳し、ワイルア(霊性)を「ウェルビーイングの基礎ないし源泉」、テ・タイアオ(te taiao。自然界)の福利を「人間の福利と切り離せず、それに先立つもの」と位置づけています。
幸せを妨げるもの
幸せを妨げるものは、四つの柱の不均衡です。具体的には、土地の喪失(植民地化と土地の収奪)、言語の喪失、ファカパパ(系譜)の断絶(都市化や養子縁組政策による家族からの切断)、そしてマナの毀損(侮辱・剥奪・差別)です。
一つの壁が崩れれば家全体が傾く、という比喩のとおり、どれか一つの妨げが全体に及びます。
共同体・対話儀礼・祭祀制度・政策
何をするのか。ファカファナウンガタンガ(whakawhanaungatanga。関係を意識的に築く実践。会合の冒頭で行われます)、ポーフィリ(pōwhiri。歓迎の儀礼)、ミヒミヒとペペハ(mihimihi と pepeha。自分の山・川・祖先を述べて自己紹介する形式)、マラエ(marae。集会の場)での集まり、タンギハンガ(tangihanga。葬送の儀礼)です。現代では、マオリ語の復興と、イウィ(iwi。部族)やハプー(hapū。部族の下位単位)による土地・河川の共同管理も道になります。
幸せはどこで実現するのか。人・祖先・土地を含む関係の網の中です。テ・ファレ・タパ・ファーは個人の身体や心も含みますが、それらを支える土台が土地と家族である点で、個人の内面には閉じません。
いつ実現するのか。ファカパパによって、過去(祖先)と現在と未来が連続しています。ヘ・アラ・ワイオラのマナ・ファナケ(mana whanake)は、明示的に「世代を超えた(intergenerational)繁栄」と定義されています。
「私」と世界の境目
「私」は、一連の関係の指定として述べられます。この思想は関係型のうち「拡張型」(主体を人間の外へ広げる型)にあたります。ペペハ(自己紹介の形式)が示すように、自己は山・川・ワカ(waka。祖先が乗ってきた航海カヌー)・イウィ・ハプー・祖先という関係の連なりとして語られ、個人の名前は最後に来ます。
フェヌアが「土地」と「胎盤」の両方を意味することも、自己と土地の連続を言語のレベルで示しています。「私」の境目は、土地や祖先との関係の中に引かれています。
境遇(運)と、努力か贈与か
境遇と幸せの関係は「非独立」です。土地・言語・歴史的正義という条件に、幸せは依存します。植民地化という歴史が、まさに幸せの毀損として経験されます。
努力か贈与かという軸では、祖先からの継承(ファカパパ)と、現世代の実践(ファナウンガタンガ)の両輪です。受け継いだものと、いま築くものの両方が必要です。なお資料のマップ上では、この軸の分類は「なし」とされています。
苦しみの位置
植民地化と土地の喪失による苦しみは、世代を超えた構造的なものとして捉えられます。個人の心理的な苦痛には還元されません。系譜の断絶、言語の喪失、マナの毀損といった苦しみは、一人の心の中の問題ではなく、家を支える柱と土台が損なわれたこととして語られます。
目盛りの定義は 17のマップ の各「目盛りの定義」を参照。
ヘドニア/エウダイモニア、三分類の枠組み
ヘドニア(快と満足としての幸福)とエウダイモニア(人間としての機能の発揮としての幸福)の軸では、形式的にはエウダイモニア寄りです。多次元的な機能の均衡を問題にするからです。テ・ファレ・タパ・ファーは、リフ(Carol Ryff。心理学者)の心理的ウェルビーイング多次元モデルなどと表面的には比較しやすいです。しかし三つの点で心理学的モデルと決定的に異なります。①霊性(ワイルア)と土地(フェヌア)を必須の次元として含むこと。②担い手が個人ではなくファーナウ(拡大された親族・共同体の単位)であること。③これが植民地支配への応答として1980年代に定式化された、政治的な枠組みでもあること。「四次元モデルとして数量化できるように見えるが、ワイルアとフェヌアは自己申告尺度に馴染まない」と注記すべきだとされます。
快楽説・欲求充足説・客観的リスト説の三分類では、客観的リスト説(本人の感じ方によらず良いものの一覧があるとする説)に近いです。四つの次元は明示的なリストだからです。ただし担い手がファーナウであり、土地が必須要素である点で、標準的な客観的リスト説とは異なります。
前野4因子との相性(やってみよう=○ ありがとう=◎ なんとかなる=△ ありのままに=○)
前野隆司(幸福学の研究者)の4因子との相性です。「ありがとう」因子(つながりと感謝)は◎(非常に相性がよい)です。ファナウンガタンガが中心だからです。「ありのままに」因子(独立と自分らしさ)は○(相性がよい)です。「やってみよう」因子(自己実現と成長)も○です。ヘ・アラ・ワイオラにあるマナ・アーヘインガ(mana āheinga。自らの望みを決め、実現する能力)が重なります。「なんとかなる」因子(前向きと楽観)は△(部分的に重なる)です。
なお、4因子とテ・ファレ・タパ・ファーはともに多次元モデルですが、後者はワイルア(霊性)とフェヌア(土地)を必須の次元とする点で構造が異なります。
生きとし生けるものの幸せ(◎ 中心に置く)
人間以外の存在への配慮は◎(最大限)です。ヘ・アラ・ワイオラは、テ・タイアオ(自然界)の福利を「人間の福利と切り離せず、それに先立つもの」と位置づけています。カイティアキタンガ(kaitiakitanga。守り手であること、自然の世話役であること)という概念もあります。ファナウンガタンガは、人と自然界の関係を含みます。
研究でどこまで確かめられているか
証拠の量は「中〜多」です。先住民の枠組みの中では、突出して制度化と実証化が進んでいます。
研究されているのは、ニュージーランドの保健政策・精神保健の実践への正式な採用、カウパパ・マオリ研究(マオリによる、マオリのための研究方法論)、ヘ・アラ・ワイオラによるウェルビーイング予算、そして先住民ウェルビーイング枠組みの国際比較です。オーストラリア先住民のSEWBモデル(ジーらの2014年の論文)と、ローズ(Deborah Bird Rose。人類学者)の1996年のカントリー論(オーストラリア先住民にとっての生きた土地についての論)は、比較対象として同じ行に置くとよいとされます。
研究の対象は、思想そのものというより、思想が保健政策と統計の言葉に翻訳されたモデル(テ・ファレ・タパ・ファー、ヘ・アラ・ワイオラ、テ・クペンガ)です。テ・クペンガ2018は、先住民の幸せを先住民の枠組みで測る数少ない公式統計です。
どこから来て、どこへ流れたか
どこから来たか。マオリの口承が基層です。ファカパパ(系譜)、ティカンガ(tikanga。慣習法)、ファイコーレロ(whaikōrero。儀礼的な演説)、ワイアタ(waiata。歌)などです。書かれた典拠は、デュリーの著作、テ・アカ・マオリ語辞書、財務省のヘ・アラ・ワイオラ文書です。植民地化への応答として1980年代に起きたマオリ・ルネサンス(言語と文化の復興運動)も源流です。
どこへ流れたか。ニュージーランドの保健政策、財務省のヘ・アラ・ワイオラ(ウェルビーイング予算。国民の幸福度を基準にした予算編成)、カウパパ・マオリ研究方法論(Kaupapa Māori research。マオリによる、マオリのための研究方法論)へと流れています。オーストラリア先住民のSEWB(社会的・情緒的ウェルビーイング)モデルとも相互に参照されています。
発達段階論から見ると
キーガン(Robert Kegan。成人の心の発達段階を研究した心理学者)の段階論から見るとどうでしょうか。四つの柱の均衡は多次元のモデルであり、段階論のような一次元の発達軸をもちません。ファカパパ(系譜)による自己の指定は、段階3(周囲に合わせる自己)的な帰属に見えます。しかしそれは自己の「限界」ではなく「土台」として語られています。適用は慎重を要します。
そのため、「器(実践を運営する自己のあり方)」と「目標(目指す自己のあり方)」はいずれも指定されていません(マップでは「−」)。なお、高い段階ほど良いという読み方はしません。
現代の言葉に翻訳すると、型は【関係を結び直す/多次元で均衡させる】です。四つの柱(霊性・心・体・家族)に土地を加えた多次元モデルを、国家の保健政策と予算枠組みに組み込んだ設計です。「一つが崩れれば家全体が傾く」という構造の比喩は、多次元の指標を単純に足し合わせない設計の根拠になります。
ただし、「四つの箱」として断片的に消費されることへの当事者の批判もあります。
安全装置共同体の相互監視儀礼の定型化・専門家の管理制度・法・専門職倫理
タグは「共・儀・制」です。「共」は共同体による支え、「儀」は儀礼による手順、「制」は制度による裏づけを意味します。
具体的には、タプ(tapu。禁忌)とマナの規範、ファーナウ(家族)とイウィ(部族)の共同体、儀礼の専門家です。保健政策への実装(テ・ファレ・タパ・ファー)は、専門職倫理と評価制度を伴っています。
誤解されやすい点
①マナを「威信」「面子」と訳すと、霊的・法的な次元が落ちます。音訳と注記が無難です。
②ファナウンガタンガを「絆」と訳すと、テ・アカ辞書が明記する「権利と義務」の側面が消えます。
③フェヌアの「土地/胎盤」という二重性は翻訳で必ず失われるので、注記が必要です。
④ファーナウは「家族」ではなく、拡大された親族・共同体の単位です。
⑤テ・ファレ・タパ・ファーを「マオリ版ウェルビーイングの四要素」として尺度化すると、デュリーの意図(家という構造の比喩であり、一つが欠けると倒れる)が消えます。
⑥マオリ語のマクロン(ā ē ī ō ū のように母音の上につく長音記号)は、CSVやPDFで文字化けしやすいので、UTF-8(文字コードの一種)に固定することが勧められます。
学者の間で議論があること
①モデルの単純化への批判です。テ・ファレ・タパ・ファーが保健行政やビジネス研修で「四つの箱」として消費され、ティカンガ(慣習法)の文脈から切り離されることへの批判が、マオリの研究者から提起されています。
②どのモデルを使うか、という問題です。デュリー自身が後にテ・パエ・マーフトンガ(Te Pae Māhutonga。南十字星に喩えた健康促進モデル)を提示するなど、モデルは複数あり、イウィごとに独自の枠組みを持つ場合もあります。「マオリのウェルビーイングモデル=テ・ファレ・タパ・ファー」という一対一の対応は不正確です。
③国家による取り込みです。ヘ・アラ・ワイオラのように国家財政の枠組みに組み込まれることは、可視化と同時に、クラウン(Crown。国家)による概念の管理という問題を生みます。これはテ・ティリティ・オ・ワイタンギ(Te Tiriti o Waitangi。ワイタンギ条約。1840年にマオリと英国王室の間で結ばれた条約)のパートナーシップ解釈をめぐる係争と不可分です。
④イウィやハプーの多様性です。ンガーイ・タフ、トゥーホエ、ンガープヒなど、部族によって歴史経験も概念の強調点も異なります。
こんなときに:身体・心・家族・霊性のどれかが欠けて、全体が傾いているとき。四つの柱の均衡で自分を見直したい人に。
小さな入口:身体・心・家族・霊性(自分を超えるものとの関係)の四つを、今どの程度満ちているか簡単に点検する。低い柱を一つ支える行動を選ぶ。
判定が近い思想:スマック・カウサイ・先住民的世界観(総論)・アイヌ → 思想の近さマップ
この世で最も大切なものは何か。それは人、人、人である。
最も広く引かれる諺。善き生の中心を人と人の関係に置く。物や土地の価値も人との関係で語られる
私の強さは一人の戦士の強さではない。多くの者の強さである。
whanaungatanga(協働と共有された経験による帰属)を支える考え方。達成は個人ではなく集団に帰属する
人は消え去っても、土地は残る。
whenua(土地であり胎盤でもある語)が人に先立ち人を超えて続く。土地喪失が幸福の毀損となる理由を示す
マオリの健康観は四つの礎からなる。霊性(wairua)、心(hinengaro)、身体(tinana)、そして家族(whānau)である。
Te Whare Tapa Whā(四つの壁をもつ家)の初出論文。一つが崩れれば家全体が傾くという多次元均衡モデル
ワイルア(霊性)が中心に置かれるのは、それがウェルビーイングの土台ないし源泉だからである。自然界(Te Taiao)の福利は最重要であり、人間の福利と切り離せない。
先住民の幸福観が国家財政の枠組みに翻訳された文書。霊性と自然を必須次元とする点で個人単位の指標と異なる
主な典拠:口承(whakapapa、whaikōrero、waiata)が基層。書かれた典拠はDurieの著作、Te Aka Māori Dictionary、財務省He Ara Waiora文書
参考文献:Durie, M. (1985) A Maori perspective of health, Social Science & Medicine 20(5): 483-486, DOI 10.1016/0277-9536(85)90363-6(Sir Mason DurieはRangitāne/Ngāti Kauwhata/Ngāti Raukawa出身の当事者研究者)/Durie, M. (1994) Whaiora: Māori Health Development, Oxford UP/New Zealand Treasury, He Ara Waiora framework(2023年9月版)/Stats NZ, Te Kupenga 2018/Te Aka Māori Dictionary
この思想が答える悩み(各思想からの悩み相談30から)
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