アドラー(個人心理学)
自分は共同体の役に立っているという感覚(共同体感覚)を持って生きられれば、劣等感は勇気に変わり幸福は自ずと訪れる
人は誰でも「自分はまだ足りない」と感じるが、それは悪いことではなく、成長のエネルギー。その力を「自分だけが上に行きたい」ではなく「誰かの役に立ちたい」という方向に使えたとき、人は勇気を持てる。幸せとは、追いかけて手に入れるものではなく、「自分は誰かの役に立っている」と感じられる生き方をしていると、あとから自然についてくるもの。
20世紀初頭のウィーンで、フロイトと決別した医師アルフレッド・アドラー(1870-1937)が創始した心理学。人は誰でも劣等感を持ち、それを乗り越えようとして成長するが、その努力が自分の優越だけに向かうと不健康になり、「共同体の役に立とう」という方向(共同体感覚)に向かうと健康になる、と考える。過去の原因(トラウマ)より未来の目的を重視し、「勇気づけ」を実践の柱とする。教育・子育て・カウンセリングに広く影響を与え、日本では哲学者・岸見一郎の『嫌われる勇気』(2013)によって一般に広まったが、この本の内容はアドラー自身の思想と岸見の再構成が混じっている点に注意が必要。
どれくらいの人が信じているか、学んでいるか
思想なので、信者数というものは存在しません。影響圏の代理指標としては、北米アドラー心理学会(NASAP)などの専門組織や、1984年に設立された日本アドラー心理学会があります。『嫌われる勇気』(2013年)は日本でシリーズ累計数百万部規模と報じられ、韓国・台湾でもベストセラーになりました(発行部数は要確認です)。
注意点として、この思想は人数の軸には置けません。専門組織の会員数と一般読者の規模は桁が異なります。
アドラー(アルフレッド・アドラー。1870〜1937年。オーストリアの医師。フロイトと決別して「個人心理学」を創始した)の心理学で幸せに関わる中心の言葉は、共同体感覚(ドイツ語でゲマインシャフツゲフュール。英訳はソーシャル・インタレスト、コミュニティ・フィーリング。他者を仲間と見なし、その一員として貢献しようとする感覚)です。それと対をなすのが劣等感(ドイツ語でミンダーヴェルティヒカイツゲフュール。「自分はまだ足りない」という感覚で、すべての人が持つ正常なもの。克服への努力の源泉)です。ほかに補償(コンペンザツィオーン。足りないところを補おうとする動き)、優越への努力(シュトレーベン・ナッハ・ユーバーレーゲンハイト。マイナスからプラスへ向かう普遍的な動き)、ライフスタイル(レーベンスシュティール。個人が幼少期に形成する認知と行動の様式)、勇気づけ(エアムーティグング)、人生の課題(レーベンスアウフガーベン。仕事・交友・愛の三つ)があります。「貢献感」という言葉は岸見一郎(きしみ・いちろう。日本の哲学者。『嫌われる勇気』の著者)の定訳で、アドラー自身の言葉では「共同体への貢献」「有用であること」にあたります。
アドラーは、幸福を独立した概念として定義していません。彼の枠組みでは、人間は誰もが劣等感を持ち、それを補おうとして優越(より良い状態)へ向かいます。この努力が自分の優越だけに向かうとき(これを私的論理と呼びます。自分だけに通用する理屈)、人は神経症的になります。共同体の側に向かうとき、人は健康になります。幸福はこの後者の状態、つまり共同体感覚をもって人生の三つの課題(仕事・交友・愛)に取り組み、「自分は役に立っている」と感じられる状態に、あとからついてくるものです。1931年の『人生の意味の心理学』は「人生の意味とは貢献である」と述べ、他者に関心を持ち協力する人だけが困難に耐えられるとしています。
なぜそう考えるのでしょうか。アドラーにとって、共同体は現在の社会に限定されません。人類全体・未来・宇宙にまで広がる理想として、「永遠の相の下に(スブ・スペキエ・アエテルニタティス。ラテン語で、永遠という観点から見て)」語られます。幸福は目標にすると逃げるものであり、貢献の結果として感じられるものです。この点で副産物型の構造を持ちますが、人生の目的(目的論)と勇気という能動的な語彙が強く、単なる副産物ではありません。一言でいえば、自分は共同体の役に立っているという感覚を持って生きられれば、劣等感は勇気に変わり、幸福は自ずと訪れる、という考えです。
幸せを妨げるもの
幸せを妨げるものは、まず劣等コンプレックス(劣等感を口実にして、やるべき課題から逃げてしまう状態)と、優越コンプレックス(優越を装ってごまかすこと)です。次に私的論理(自分だけに通用する理屈)です。さらに、甘やかしと放任によって共同体感覚が育たないこと、そして競争と比較が挙げられます。
アドラーにとって最大の妨げは、能力の不足ではなく「勇気の欠如」です。そしてそれは、共同体感覚の欠如と表裏をなしています。この思想で幸せの反対にあたる言葉は、私的論理・劣等コンプレックス・勇気の欠如、つまり「自我への執着」だと整理できます。
共同体・対話学習・思索
実践の中心は勇気づけ(エアムーティグング。ほめたり叱ったりする賞罰ではなく、その人が課題に向かう力を持てるように関わること)です。次に、早期回想(幼いころの記憶)の分析によって、自分のライフスタイルを自覚することがあります。「何のためにそうしているのか」という目的論的な問いも重要です。共同体感覚の訓練としては、アドラーが引用した「他者の目で見、他者の耳で聞き、他者の心で感じる」という定式があります。アドラー自身はウィーンに児童相談所を開き、子育て・教育相談を実践しました。そして何より、仕事・交友・愛という人生の課題に実際に取り組むことが道になります。
岸見一郎の再構成版では、「課題の分離」(それは誰の課題かを見きわめ、他人の課題に踏み込まないこと)、「承認欲求の否定」、「今ここを真剣に生きる」が実践の柱になっています。
幸せはどこで実現するのでしょうか。共同体との関係(貢献感)と、個人の態度(勇気)の両方です。個人の内面に閉じることはなく、必ず他者へ向かいます。制度よりも、対人関係と教育の場に置かれます。
いつ実現するのでしょうか。現世です。目的論(未来の目標が現在の行動を決めるという見方)が中心で、過去の原因(トラウマ=心の傷)は重視しません。岸見版はさらに「今ここ」を強調します。まとめると、共同体への貢献感のなかで人は勇気を持ち、幸福はそれに伴って生じる、という貢献・関係構成モデルです。実践の形は共同体・対話と学習・思索に分類されます。
「私」と世界の境目
アドラーの自己観は、「分割できない全体」としての自己です。「個人心理学」の「個人(インディヴィドゥウム)」とは「分割できないもの」という意味で、この名前の由来です。個人主義とは関係ありません。
ただし、この自己は関係のなかでのみ意味を持ちます。共同体感覚は自己の一部というより、自己が成り立つための条件に近いものです。「私」と世界の関係の型で言えば関係型です。分割できない全体としての個人が、共同体感覚という関係のなかでのみ健康に成立する。これは西洋近代の思想のなかでは例外的に関係的な自己観です。
境遇(運)と、努力か贈与か
境遇については「部分的に独立」です。生まれた境遇や器官劣等性(からだの弱い部分)は出発点にすぎず、それをどう使うかは個人に委ねられます。「重要なのは何を持って生まれたかではなく、与えられたものをどう使うか」という言葉があります。ただし、共同体の側が受け入れてくれることも条件になります。
努力か贈与かについては、努力(勇気)と互酬(ごしゅう。共同体との間で貢献をやり取りすること)です。贈与の側面は、「所属感は与えられるもの」という形で弱く残っています。
苦しみの位置
劣等感は苦しみの一種ですが、アドラーにとっては成長の動因です。苦しみは課題から逃げる口実(劣等コンプレックス)になりうるものの、それ自体は正常で必要なものとされます。トラウマの原因論(過去の傷が現在を決めるという考え)を退ける点で、苦しみの意味づけは楽観的です。
目盛りの定義は 17のマップ の各「目盛りの定義」を参照。
ヘドニア/エウダイモニア、三分類の枠組み
現代の幸福研究では、幸せをヘドニア(快と満足としての幸福)とエウダイモニア(人間としての機能の発揮としての幸福)に分けることがあります。アドラーはエウダイモニア寄りです。快の追求は主題にならず、共同体感覚という徳のような態度と、人生課題の遂行が幸福の内容だからです。ただし「機能の発揮」ではなく「他者への貢献」を軸にする点で、アリストテレス(古代ギリシャの哲学者。エウダイモニア論の源)とはずれがあります。
もう一つの枠組みとして、快楽説(快が善)/欲求充足説(望みが叶うことが善)/客観的リスト説(快や望みとは独立に、良いものの一覧がある)という三分類があります。アドラーは客観的リスト説に近く、そのリストは共同体感覚・三つの課題の遂行・勇気です。ただし主観的な満足感(貢献感)も重視するため、混合的です。
前野4因子との相性(やってみよう=◎ ありがとう=◎ なんとかなる=○ ありのままに=○)
前野隆司(幸福学の研究者)の4因子との相性は次のとおりです。
やってみよう(自己実現と成長)=◎(とてもよく合う)。勇気と目的論が中心にあるからです。
ありがとう(つながりと感謝)=◎(とてもよく合う)。共同体感覚と貢献感そのものです。
なんとかなる(前向きと楽観)=○(合う)。勇気づけによって課題に向かう力を得ます。
ありのままに(独立と自分らしさ)=○(合う)。岸見版の承認欲求の否定と自己受容が対応します。ただしアドラー自身の著作ではこの要素は弱いです。
生きとし生けるものの幸せ(△ 人間が中心)
生きとし生けるものへの配慮は△(一部含まれる)です。共同体感覚は「人類全体・未来・宇宙」にまで及ぶとされますが、実質的には人間の共同体が対象です。動物や自然は主題になりません。
研究でどこまで確かめられているか
研究の裏づけは「中」程度です。社会的関心の尺度と向社会的行動の研究が接点ですが、理論そのものの直接検証は薄いです。
①社会的関心(social interest。共同体感覚の英訳)を測る尺度として、クランダル(1975年)の社会的関心尺度、グリーバーら(1973年)の社会的関心指標、サリマン(1973年)の尺度があります。これらは主観的ウェルビーイングや生活満足度と中程度の正の相関を示します(リークとリークによる2006年のレビュー)。②他者への貢献と幸福の関係については、向社会的支出(人のためにお金を使うこと。ダン、アクニン、ノートンの2008年の研究)や、他者への親切の介入(カリーらの2018年のメタ分析。効果量d≈0.28、小さめの効果)が、貢献感と幸福の関連という主張と整合します。ただし、これらはアドラー理論の検証として設計されたものではありません。③勇気づけを柱とする親教育プログラムの効果研究は北米に一定数あります。④日本では「貢献感」尺度による研究が散発的にあります。
注意点として、共同体感覚の尺度は理論との対応が緩く、測定の妥当性が批判されています。研究の対象は思想そのものというより、その周辺の概念です。
どこから来て、どこへ流れたか
どこから来たか。フロイト(ジークムント・フロイト。精神分析の創始者)から影響を受け、1911年に決別した後も無意識の枠組みは受け継ぎました。ニーチェ(ドイツの哲学者)の「力への意志」が「優越への努力」に、ファイヒンガー(ドイツの哲学者)の『かのようにの哲学』が「虚構的目標」(人が実在するかのように追い求める目標)に反映されています。社会主義的な社会医学の影響もあります。
どこへ流れたか。フランクル(ヴィクトール・フランクル。意味療法の創始者)はアドラーの弟子として出発し、1927年に離れました。人間性心理学のマズローとロジャーズは影響を認めています。認知行動療法のエリスとベックは、アドラーを先駆者として言及しています。ドライカース(ルドルフ・ドライカース)は民主的な子育て・教育に発展させました。ポジティブ心理学との概念的なつながりは、リークとリークの2006年の論文が整理しています。そして日本では2013年以降の『嫌われる勇気』現象があります。
発達段階論から見ると
キーガン(成人の心の発達段階を研究した心理学者)の段階論では、段階3(周囲に合わせる自己)、段階4(自分の基準を持つ自己)、段階5(自分の枠組みを相対化できる自己)と進むと考えます。アドラーは、自分の目的を自覚し、ライフスタイルを選び直すという点で、段階4(自己主導型)の心理学的な定式に近いです。
しかし共同体感覚を自己の成立条件とする点で、これは段階3(環境順応)への逆戻りではありません。段階4を経たうえで関係性を再び獲得する段階4.5(グリーン。関係性や多元性を重んじる自己)という読みが自然です。そのため、このマップでは目標を4.5に置いています。岸見版の「課題の分離」は段階4の典型的な技法です。発達段階論とは比較的なじみやすい思想ですが、アドラー自身は段階的な発達を語っていません。発達段階マップでは、器(実践を運営する自己のあり方)=段階4、目標(目指す自己のあり方)=段階4.5と記されています。なお、高い段階ほど良いという読みはしません。
型は【関係を結び直す/伸ばす】です。「貢献感」を軸にした介入になります。具体的には、他者への親切・向社会的行動の介入(効果量は小〜中)、勇気づけ(賞罰ではないフィードバック)、「何のために」を問う目的論的な対話です。組織向けには、承認や評価ではなく貢献の実感を設計すること(誰の役に立ったかが見える仕組み)が対応します。
注意点があります。「課題の分離」を対人関係からの撤退に、「承認欲求の否定」を無関心に誤訳してはいけません。共同体感覚は同調ではありません。
安全装置師の監督・段階的伝授制度・法・専門職倫理
タグは「師・制」です。師=訓練された指導者のもとで行う、制=制度と専門職の規範で支える、という意味です。
具体的には、治療者の訓練と監督(専門職倫理)、そして共同体感覚という規範が安全装置です。「勇気づけ」が賞罰に変質しないよう、また課題の分離が冷淡さに転じないよう、実践は訓練された援助者との関係のなかで行われます。自己啓発書としての受容は、この枠を外してしまっています。
誤解されやすい点
①『嫌われる勇気』=アドラーではありません。ベストセラーの内容の相当部分は岸見の哲学的な再構成であり、アドラー自身は「嫌われてよい」とは述べていません。
②「トラウマは存在しない」は誇張です。アドラーは経験の意味づけを重視したのであって、過去の経験の影響を否定したわけではありません。
③共同体感覚を「空気を読む」「集団への同調」と混同してはいけません。むしろ同調は、共同体感覚の欠如(勇気の欠如)として批判されます。
④「個人心理学」は個人主義の心理学ではなく、「分割できない全体としての人」の心理学です。
⑤自己啓発的な「ポジティブ思考」への還元。アドラーは楽観を勇気の帰結と見たのであって、楽観を努力の代わりにしたわけではありません。
学者の間で議論があること
①アドラー自身の思想と、岸見一郎・古賀史健(こが・ふみたけ)による再構成(『嫌われる勇気』)との距離。「課題の分離」「承認欲求の否定」「トラウマは存在しない」はアドラーの原文にそのままの形では見いだせず、岸見の解釈と強調です。
②共同体感覚は経験的な概念か、それとも理想か。アドラー自身が晩年に「永遠の相の下に」と語ったため、社会学的な概念と形而上学的な理想の間で揺れています。
③フロイトからの分離の評価。アドラーは弟子だったのか、対等な同僚だったのか。
④ドライカース以降のアメリカのアドラー心理学(民主的子育て)が、本来のアドラーをどこまで継承しているか。
⑤共同体感覚は測定できるのか。尺度の妥当性が問われています。
こんなときに:劣等感に振り回され、人と比べて落ち込むとき。「自分は役に立っている」感覚を回復したい人に。
小さな入口:誰かの役に立てたと感じた瞬間を一つ思い出す。比較の軸を「勝ち負け」から「貢献」に変えると、勇気が戻るかを試す。
この思想が出てくる悩み:「人と比べて落ち込む。SNSを見ると劣等感が湧く」
判定が近い思想:プラグマティズム・儒教(原始)・Ubuntu → 思想の近さマップ
人生の問題にうまく向き合う人は、人生の意味とは他者への関心と協力であると、十分にかつ自然に認めているかのように行動する。
「人生の意味は貢献である」というアドラーの中心命題。幸福は独立に定義されず、共同体感覚をもって生きる状態の随伴物とされる。
私的な意味は、実のところ意味ではまったくない。意味は伝え合いのなかでのみ成り立つ。
自分にだけ通用する理屈(私的論理)を、あらゆる失敗の共通の尺度として退ける。妨げは能力不足ではなく共同体感覚の欠如。
劣等感はある程度まで私たち全員に共通している。誰もが、改善したいと望む状況の中に自分を見いだすからだ。
劣等感を病ではなく万人に共通する正常な感覚、成長の動因とみなす。問題はそれを口実に課題から逃げること(劣等コンプレックス)。
私たちは友情のなかで、他者の目で見、他者の耳で聞き、他者の心で感じることを学ぶ。
共同体感覚(他者を仲間と感じる力)の内容を示す定式。アドラーが繰り返し用いた「他者の目で見る」の1931年版。
人生とは貢献であると理解している人だけが、勇気をもって、成功の見込みをもって、困難に向き合うことができる。
貢献と勇気を結ぶ一文。共同体感覚があってはじめて劣等感が勇気に変わる、というアドラーの幸福観の骨格。
主な典拠:Adler, A. (1912) Über den nervösen Charakter(『神経質性格について』)/Adler, A. (1927) Menschenkenntnis(『人間知の心理学』)/Adler, A. (1931) What Life Should Mean to You(『人生の意味の心理学』。「人生の意味は貢献である」)/Adler, A. (1933) Der Sinn des Lebens(『生きる意味を求めて』)/Ansbacher, H. L. & Ansbacher, R. R. (eds.) (1956) The Individual Psychology of Alfred Adler, Basic Books(主要テキストの体系的編集)
参考文献:Hoffman, E. (1994) The Drive for Self: Alfred Adler and the Founding of Individual Psychology, Addison-Wesley/Ansbacher, H. L. (1992) Alfred Adler's concepts of community feeling and of social interest, Individual Psychology 48(4)/Carlson, J. & Maniacci, M. P. (eds.) (2012) Alfred Adler Revisited, Routledge/岸見一郎『アドラー心理学入門』ベスト新書、1999/岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』ダイヤモンド社、2013/野田俊作『アドラー心理学を語る』全4巻、創元社、2016-2017
この思想が答える悩み(各思想からの悩み相談30から)
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