儒教(原始)
親子・君臣・友人といった人と人の関係(人倫)のなかで徳を修め、学ぶことを楽しみ、天から与えられた役割(天命)に安んじて生きる充実
幸せは、一人で悟るものではなく、家族・友人・社会との関係の中で徳を実践し、学び、楽しむことそのものにある。粗末な食事でも学びと友との交わりがあれば楽しみはあるし、不正な富は浮雲のようなものだ。長寿や富といった「運」の部分は天に任せ、自分は人としての道に専念する、という二層構造。
紀元前6〜5世紀の中国で孔子が説き、孟子・荀子が発展させた教え。家族や社会の関係の中で徳を実践し、礼儀と学問によって人格を磨くことを重んじる。漢の時代に国の公式の学問となり、2千年にわたって中国・朝鮮・日本・ベトナムの社会を形づくった。宗教か思想かは今も論争があり、信者数として数えることはできない。
どれくらいの人が信じているか、学んでいるか
「信者」として数えることはできません。Pew Research Center(ピュー・リサーチ・センター。アメリカの調査機関)は明示的に「中国の儒教徒の数は推計しない」と述べています。代わりに東アジアの文化的影響圏(中国・日本・韓国・ベトナム・台湾で約16億人)を挙げることはできますが、これは信者数ではありません。
Pew が推計しない理由は三つです。①アブラハム系の宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)と異なり、メンバーシップという概念が存在しません。②中国人は一般にこれらを「宗教(zongjiao)」と呼びません。③排他性がなく、儒教的な価値を体現する人物が同時に仏教徒であることが普通です。したがって儒教を人数の軸に置くべきではありません。規模の区分は「×(文化圏。信者概念が成立しない)」です。
原始儒教(げんしじゅきょう。紀元前6〜前3世紀の中国で、孔子・孟子・荀子が説いた初期の儒教)が言う幸せの中心にある言葉は、楽(らく/がく。中国語でlè/yuè)です。この字には「たのしみ」と「音楽」という二つの読みと意味があり、同じ一つの字です。楽は、徳(人としての優れたあり方)を実践するときに内側から自然に湧いてくる感情であって、外から与えられるごほうびではありません。
もう一つ大切な言葉が、福(ふく)です。福の字は「示(しめす)偏」で、もともと祭祀(さいし。神や先祖をまつること)や神霊から授かるものを指しました。『尚書』(しょうしょ。古代中国の政治文書を集めた経典)の洪範(こうはん)篇には五福(ごふく)として、寿(長生き)・富・康寧(こうねい。健康で安らかなこと)・攸好徳(ゆうこうとく。徳を好むこと)・考終命(こうしゅうめい。天寿を全うすること)が挙げられています。ほかに仁(じん。人と人との間の思いやり)・徳・安(「仁者は仁に安んず」)、命(めい)・天命(てんめい。天から与えられた運命や使命)、誠(せい)・中庸(ちゅうよう。偏らないこと)といった言葉も幸せに関わります。なお「幸福」という言葉自体は明治時代につくられた訳語で、古代の中国語には一語でぴったり対応する言葉はありません。
この思想では、善い生き方は外的な条件を手に入れることではありません。人と人との関係のなかで徳を実現する活動そのものに、充実が内在していると考えます。『論語』(ろんご。孔子と弟子たちの言葉を集めた書)の学而(がくじ)篇には、学んで繰り返し身につけることには「説(よろこ)び」が伴い、遠くから友が訪ねてくることには「楽しみ」が伴い、人に認められなくても腹を立てないのが君子(くんし。徳を備えた立派な人)だ、とあります。述而(じゅつじ)篇では、粗末な飯を食べ水を飲み、肘を枕にして寝るような暮らしのなかにも楽はある、不正な手段で得た富や地位は浮雲のようなものだ、と語られます。つまり幸せは、道徳的な達成のあとに来るおまけではなく、達成の「あり方」そのものです。
同時に、寿・富・康寧といった外的な「福」は天命の領域に属するとされます。人の側は「命を知る」(知命。自分の力の及ばない領域があると知ること)ことによって、富や貧しさに一喜一憂しない構えを得ます。孟子(もうし。紀元前4世紀の思想家。人の本性は善だと説いた)は「君子の三楽(さんらく)」として、天下の王になることは含めず、家族が無事であること、自分を省みて恥じるところがないこと、優れた人材を教育すること、の三つを挙げました。要するに、徳の「楽」は自分で修めるもの、外的な「福」は天に任せるもの、という二層の構造が原始儒教の幸福観の特徴です。
幸せを妨げるもの
幸せを妨げるものとして、まず私利の追求(利や欲)が挙げられます。次に、礼(れい。冠婚葬祭から日常の作法まで、体で覚える社会的な型)を欠いた感情の放縦です。学ばないこと、人との関係が壊れること(不孝や不信)、他人の評価に依存すること、そして天命と人事(人の努力の領域)を混同することも妨げとされます。
孟子はとくに「放心」(ほうしん。本来備わっている善い心を見失うこと)と、環境による「陥溺」(かんでき。悪い環境に沈み込んでしまうこと)を問題にしました。荀子(じゅんし。紀元前3世紀の思想家。人の本性は悪だと説いた)は、放置されたままの自然な欲望そのものが妨げだと考えました。
この思想で幸せの反対にあたるのは、不調和・分断です。具体的には、関係の破綻(不孝・不信)と私利です。
学習・思索儀礼・祭祀共同体・対話
実践は七つにまとめられます。第一に、学と習です。経書(けいしょ。儒教の基本となる古典)を学び、繰り返して体得します。第二に、礼です。冠婚葬祭や日常の所作を通じて、身体的な習慣を形づくります。第三に、楽(がく)です。音楽によって感情を調律します。第四に、内省です。「吾(われ)日に吾が身を三省す」(毎日、自分を三つの点で省みる)という言葉や、孟子の「浩然の気(こうぜんのき。天地に満ちる広大な気)を養う」という実践がこれにあたります。第五に、孝(こう。親を大切にすること)と祖先祭祀です。第六に、恕(じょ。思いやり。「自分がされたくないことを人にしてはならない」)です。第七に、荀子の「化性起偽(かせいきぎ)」です。これは、師の教えと礼義によって、自然な本性を人為的に陶冶(とうや。鍛えて磨くこと)していくという考えです。
幸せはどこで実現するのでしょうか。第一には関係性のなかです。家族、友、君主と臣下、郷党(きょうとう。地域の共同体)といった関係です。次いで個人の内面です。「不愧不怍(ふきふさく)」、つまり天にも人にも恥じるところがない、という状態です。天は超越的な人格神というより、規範と限界の源泉です。人格神による救済に頼ることはありません。
いつ実現するのでしょうか。基本は現世です。ただし祖先祭祀を通じて、子孫や世代の連続が強い軸をなしています。加地伸行(かじのぶゆき。儒教研究者)は、儒教の宗教性の核を「生命の連続」に見ています。来世観は薄く、『論語』には「未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」(まだ生きることも分かっていないのに、どうして死が分かるだろうか)という言葉があります。実践の形としては、学習・思索、儀礼・祭祀、共同体・対話が中心です。全体としては、徳の活動そのものに幸福が内在する「関係内在モデル」と整理できます。
「私」と世界の境目
原始儒教の自己は、関係的な自己です。人は役割、すなわち「名」(父・子・君・臣といった名分)において自己が構成されると考えます。これを正名論(せいめいろん。名と実を一致させるという考え)と言います。また身体的な自己でもあります。礼という身体技法によって人格が形づくられるからです。
ただし孟子と荀子で自己の見方は対立します。孟子は四端(したん。仁・義・礼・智の四つの徳の芽生えが、生まれつき心に備わっているという考え)を前提にする内在主義です。荀子は、自己を外から陶冶される素材と見る外在主義です。
「私」と世界の境目については、関係型に分類されます。自己は役割において構成され、天人相関(てんじんそうかん。天と人が互いに応じ合うという考え)はありますが、主体と客体が溶け合うとまでは語りません。
境遇(運)と、努力か贈与か
境遇(運)との関係は、部分的に非独立とされます。徳の「楽」は運から独立しています。しかし「福」、つまり寿・富・康寧は天命の領域として、はっきりと運に委ねられます。この二層構造が儒教の特徴です。
幸せは努力で得るのか、贈られるのかについては、努力による獲得が基本です。学び、礼、修養によって身につけます。ただし「福」だけは天からの授与です。整理すると、境遇は「部分」、努力か贈与かは「努力」となります。
苦しみの位置
苦しみは幸せの妨げです。しかし、顔回(がんかい。孔子の最も優れた弟子)のように「困窮に処して楽を改めず」(貧しさのなかにあっても楽しみを変えない)という姿が理想像とされます。つまり逆境こそが徳の試金石だと考えられています。苦しみそのものに価値があるというより、苦しみのなかでも楽を失わないことに価値があるという位置づけです。
目盛りの定義は 17のマップ の各「目盛りの定義」を参照。
ヘドニア/エウダイモニア、三分類の枠組み
ヘドニア(快と満足としての幸福)とエウダイモニア(人間としての機能の発揮としての幸福)という枠組みで見ると、原始儒教は明確にエウダイモニア寄りです。徳の活動に内在する充足という構造は、アリストテレス(古代ギリシャの哲学者)のエウダイモニア論と近いところにあります。
ただし三つのずれがあります。第一に、儒家の「楽」は感情的・身体的・音楽的で、快の次元を排除しません。第二に、幸福の主語が個人ではなく関係体(家や共同体)です。ヘドニアもエウダイモニアも個人を主体と考える点で、ずれがあります。第三に、「福」(外的な祝福・天命)という第三の軸があります。これは徳倫理でも快楽主義でもない「運の領域」を制度として認めたものです。
快楽説/欲求充足説/客観的リスト説(幸福とは快であるか、欲求の充足であるか、それとも客観的に善いものの一覧を満たすことか)という枠組みでは、客観的リスト説に近いと言えます。仁・礼・学・友・家族の実現がその内容です。ただし「福」という運の領域を別枠で認める点で、純粋な客観的リスト説ではありません。
前野4因子との相性(やってみよう=◎ ありがとう=◎ なんとかなる=○ ありのままに=○)
前野隆司(まえのたかし。幸福学を研究する日本の研究者)の4因子との相性は次のとおりです。
ありがとう(つながりと感謝)=◎(とても合う)。関係性が幸福の第一の座だからです。
やってみよう(自己実現と成長)=◎(とても合う)。学びと修養が実践の中心だからです。
ありのままに(独立と自分らしさ)=○(合う)。「人知らずして慍(うら)みず」、つまり他人に認められなくても腹を立てない、という構えがあるからです。
なんとかなる(前向きと楽観)=○(合う)。知命、つまり天命を知って動じない構えがあるからです。
生きとし生けるものの幸せ(○ 含むが、人間との差はある)
生きとし生けるものへの配慮は、○(差等あり)です。仁は、親しい者と疎遠な者とで濃淡の差をもちます。『孟子』尽心(じんしん)上篇には「親を親しみて民を仁し、民を仁して物を愛す」とあります。愛は物(動物や自然)にまで及びますが、そこには順序と濃淡があります。『論語』述而篇には「釣りて綱せず、弋(よく)して宿を射ず」、つまり孔子は釣りはしたが大網は使わず、矢で鳥を射ても巣にいる鳥は射なかった、という記述があります。
研究でどこまで確かめられているか
研究による裏づけの程度は「中」です。ただし因果的な帰属は未検証です。
東アジアの協調的幸福(interdependent happiness。人並みであることや周囲との調和を中核とする幸福)の研究があります。Hitokoto & Uchida(一言英文と内田由紀子。2015年)や Uchida & Ogihara(2012年)の研究です。これらは「人並みであること」「周囲との調和」を幸福の中核指標としており、儒教的な関係的自己と構造的に響き合います。
しかし注意が必要です。これらの研究が測っているのは、現代の東アジア人の民間心理であって、儒教テクストの規範ではありません。「儒教の遺産だから」と因果関係を主張する研究は、方法論的に成り立っていません。また Peng & Nisbett(1999年)の弁証法的思考(矛盾を許容する考え方)の研究も、儒教というより道家・仏教・陰陽論の混合を反映していると見られます。つまり研究の対象は思想そのものではなく、その周辺にある現代の心理傾向です。
どこから来て、どこへ流れたか
原始儒教が受け継いだものは、周(しゅう。紀元前11〜前3世紀の王朝)の時代の礼の制度と祖先祭祀です。
そこから流れ出たものは多岐にわたります。新儒教(宋・明の時代に哲学的に再構築された儒教)、朝鮮の性理学(せいりがく。朱子学の朝鮮での呼び名)、日本の近世の儒学、ベトナムの儒教、そして科挙(かきょ。中国の官僚登用試験)制度を通じた東アジア全体の教養です。さらに、現代の「協調的幸福」研究が対象とする東アジアの民間心理にも影響が及んでいると考えられます。ただし、その因果関係は検証されていません。
発達段階論から見ると
キーガン(成人の心の発達段階を研究した心理学者)の段階論で見ると、役割(名)において自己が構成される点で、段階3(周囲に合わせる自己。環境順応型、アンバーとも呼ばれます)の構造が基本です。ただし「人知らずして慍みず」や「三省」には段階4(自分の基準を持つ自己)的な内省が含まれます。また天命観には、段階5(自分の枠組みを相対化できる自己)的な、限界の受容が含まれます。
「器」(実践を運営する自己のあり方)と「目標」(目指す自己のあり方)を区別すると、器は段階3、目標は段階4と整理されます。なお、協調的幸福をアンバー向けの幸福と読む解釈がありますが、儒教のテクストと現代東アジア人の民間心理を同一視してはいけません。また、高い段階ほど良いという読み方はしないでください。
現代の言葉に翻訳すると、【関係を結び直す/伸ばす】型の設計になります。学び、礼(型)、友との交わりのなかに幸福を置く設計です。
「楽しみは活動に内在する」という構えは、報酬による動機づけへの批判と重なります。ごほうびで人を動かすのではなく、活動そのものに喜びを見いだす方向です。また「福(運)は天に任せ、徳は自分で修める」という二層構造は、自分で統制できるものと、できないものを切り分ける考え方として、実務的に使えます。
安全装置師の監督・段階的伝授共同体の相互監視戒律・倫理規範
安全装置のタグは「師・共・戒」です。師(師匠による指導)、共(共同体による支え)、戒(規範による枠づけ)を意味します。
礼(儀礼と作法)が感情と行為を枠づけます。師友(師と学友)による切磋琢磨があります。五倫(ごりん。父子・君臣・夫婦・長幼・朋友という五つの人間関係)の相互の義務が、独りよがりを抑えます。「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」(やりすぎは足りないのと同じ)という中庸の考えもあります。孔子自身が怪力乱神(かいりょくらんしん。怪しいこと、力ずくのこと、秩序を乱すこと、神秘的なこと)を語らず、神秘体験を実践の目標から外しました。
誤解されやすい点
誤解されやすい点は四つあります。
①「楽」を pleasure(快楽)と訳すと大きく外れます。「たのしみ」と「音楽」が同じ字であり、礼楽論(儀礼と音楽の理論)と感情論が切り離せないからです。
②「福」は「幸福」ではありません。福は外から与えられる祭祀的なもの、楽は内側から活動に伴って生じるものです。近代語の「幸福」は、この二つを一つに圧縮してしまいます。
③「幸」という字はもともと「僥倖(ぎょうこう。思いがけない幸運)」を意味し、儒家の価値を表す言葉ではありません。
④儒教を「禁欲的な道徳主義」とする像は、宋学(そうがく。宋の時代の新儒教)以降、とくに「存天理滅人欲(天理を保ち人欲を滅する)」という考えの投影です。原始儒教は飲食・音楽・交友の快を積極的に評価しています。
学者の間で議論があること
学者の間で議論があることは四つあります。
①孟子の性善説と荀子の性悪説の対立です(『孟子』告子上篇と『荀子』性悪篇)。楽の源泉が内側にあるのか、外側の礼楽にあるのかで、幸福論の全体が分かれます。近年は「性悪」を「性朴(せいぼく。本性は善でも悪でもなく素朴だ)」と読む解釈も出ており、定説はありません。
②告子(こくし。孟子と論争した思想家)との人性論争です。
③荀子における天の非人格化(天を自然の法則と見る立場)と、孟子の天人相関との間の緊張です。
④儒教は宗教か思想かという問題です。加地伸行や C.K. Yang(楊慶堃。中国系アメリカの社会学者)が唱える「拡散した宗教(diffused religion)」論に対し、近代中国では「儒教は宗教ではない」という論があります。
こんなときに:人間関係の中で「役割」に縛られて息苦しいとき。逆に、関係を避けて孤立してしまうときにも。
小さな入口:家族・同僚・友人のうち一つの関係を選び、「その関係の中で自分が育てられる徳は何か」を考えてみる。役割は檻ではなく修養の場。
この思想が出てくる悩み:「人と比べて落ち込む。SNSを見ると劣等感が湧く」「人とのつながりが薄く、自分が誰なのか分からない」
判定が近い思想:仏教(日蓮)・イスラム教・シク教 → 思想の近さマップ
学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや。
学ぶ悦び、友との楽しみ、他人の評価に動じない心。幸せが学習と関係の活動そのものに内在するという儒教の基本形を冒頭で示す。
賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えざるも、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。
困窮のなかでも楽を改めない顔回が理想像。逆境こそ徳の試金石であり、のちの新儒教「孔顔楽処」の問いの淵源となった。
疏食を飯らい水を飲み、肱を曲げて之を枕とす、楽しみ亦其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。
粗食と肘枕のうちにも楽はあり、不義の富貴は浮雲。幸せを妨げるのは貧しさではなく、道に背いて得た富への執着だと説く。
之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず。
知る→好む→楽しむの三段階。道の実践は義務ではなく、最終的には「楽しむ」境地に至るという儒教の実践論の一行。
君子に三楽有り、天下に王たるは与らず。父母倶に存し兄弟故無きは一の楽しみ、仰いで天に愧じず俯して人に怍じざるは二の楽しみ、天下の英才を得て之を教育するは三の楽しみなり。
君子の三つの楽しみに「天下の王となること」は含まれない。家族の無事、恥じない内面、他者を育てること——関係に根ざす幸福の定義。
主な典拠:『論語』学而第一「学而時習之、不亦説乎…」/雍也第六「一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽」(孔顔楽処の淵源)/雍也「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」/述而第七「飯疏食飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣」/先進第十一(曾点章「吾は点に与せん」)/『孟子』尽心上「君子有三楽」/梁恵王下(与民同楽)/『荀子』楽論篇「夫楽者、楽也」/性悪篇/『尚書』洪範(五福・六極)
参考文献:Fraser, C. (2013) Happiness in Classical Confucianism: Xúnzǐ, Philosophical Topics 41(1): 53-79/Ivanhoe, P. J. (2000) Confucian Moral Self Cultivation, 2nd ed., Hackett/加地伸行『儒教とは何か 増補版』中公新書、2015/Uchida, Y. & Kitayama, S. (2009) Emotion 9(4): 441-456
この思想が答える悩み(各思想からの悩み相談30から)
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