ポジティブ心理学3.0
幸せは個人の中だけにあるのではなく、文化・関係・制度・生態系という複雑なシステムのなかで立ち上がる——だから幸せの物差しも一つではない
幸せは一人の心の中で完結しない。職場の雰囲気、地域のつながり、国の制度、自然環境が良い状態にあるとき、その一部として人も幸せになる。だから「あなたは幸せですか」と一人ずつ聞くだけでは足りず、家族・職場・地域・国という複数のレベルで測り、働きかける必要がある。また、幸せの意味は文化によって違う——日本の「ほどほど」「和」「生きがい」も、アメリカの「達成」も、対等な幸せの形。幸せを「増やす」より、幸せが生まれる「システムを整える」ことに重点が移った、ポジティブ心理学の最新形。
2021年に提唱された、ポジティブ心理学の最も新しい展開。幸せは一人ひとりの心の中だけにあるのではなく、家族や職場、地域、国の制度、さらには自然環境まで含めた「システム」のなかで生まれる、と考える。だから幸せの測り方も一つではなく、文化ごとに違う幸せの言葉(日本語の「生きがい」、東アジアの「調和」など)を対等に扱おうとする。心理学だけでなく、社会学・経済学・生態学と協力して研究する。本マップのように「世界の幸福観を並べて比べる」という試み自体が、この流れの一つと言える。
どれくらいの人が信じているか、学んでいるか
研究運動なので、信者数というものは存在しません。影響圏の代理指標としては、学術誌Journal of Positive Psychologyの第三波特集、グローバル・フラーリッシング・スタディ(22カ国、20万人)、世界幸福度報告への寄稿、ウェルビーイング予算を導入した国(ニュージーランド)があります(規模の指標は要確認)。
注意点として、この思想は人数の軸には置けません。最も新しい展開であり、実装は始まったばかりです。
ポジティブ心理学3.0(ポジティブ心理学の第三の展開。ロマス、ウォーターズ、ウィリアムズ、オーデス、カーンが2021年に「第三波」として定式化)の中心の言葉は、第三波ポジティブ心理学(third wave positive psychology)と複雑性(complexity。要素の足し算ではなく、相互作用のなかで立ち上がるという性質)です。関連する言葉として、システム情報型ポジティブ心理学(systems informed positive psychology。カーンらが2020年に提唱)、文化的多元性(cultural pluralism。幸せの意味や測り方は文化によって違い、どれか一つが正解ではないという立場)、ポジティブ・レキシコグラフィー(ロマスが2016年に始めた、世界の言語の翻訳できない幸福語の集成)、脱WEIRD(西洋・高学歴・工業化・豊か・民主的な社会への研究の偏りを正すこと)、集団・組織・国家水準のウェルビーイング、バランスと調和(balance and harmony。東アジア的な幸福観の取り込み)、エコロジカル・ウェルビーイング(生態系の良い状態)、グローバル・フラーリッシング、学際性(interdisciplinarity。複数の学問分野が協力すること)があります。
ポジティブ心理学3.0は、1.0が個人の内的状態を単一の尺度で測って増やそうとしたこと、2.0がなお個人の実存に単位を置いたことの両方を越えようとします。幸福を、複数の水準(個人・関係・集団・組織・社会・生態系)にまたがる複雑系の現象として捉えます。個人の幸福は文化・制度・環境との相互作用のなかで立ち上がるものであり、要素に分解して足し合わせることはできません。したがって「幸福の定義」も一つではありません。言語や文化ごとの幸福観(翻訳できない語、東アジアの「バランスと調和」、先住民の関係的ウェルビーイング)を、対等な資料として扱います。
方法論としては、心理学の枠を出て、社会学・人類学・経済学・生態学・政策科学との学際的な協働を求めます。幸福の主語は個人から「システム」へ移ります。幸福は個人が増やすものというより、システムの状態が良いときに個人にも現れるものとして描かれます。47項目のなかでは、西洋の幸福科学が関係構成型・制度型・先住民的世界観へ歩み寄った地点にあたります。本マップ自体が、3.0の問題意識と重なります。一言でいえば、幸せは個人の中だけにあるのではなく、文化・関係・制度・生態系という複雑なシステムのなかで立ち上がる、だから幸せの物差しも一つではない、という考えです。
幸せを妨げるもの
幸せを妨げるものとして、まず単一水準(個人)と単一尺度への還元があります。幸せを一人の心の中のことに限定し、一つの物差しで測ってしまうことです。次にWEIRDのサンプルへの偏り、文化的多元性の無視があります。さらにシステムの不均衡(社会的不平等・環境劣化)と、学問分野の分断が挙げられます。
妨げは個人の内面ではなく、測り方と制度と環境の側に置かれています。この思想で幸せの反対にあたる言葉は、システムの不均衡と単一水準への還元、つまり「不調和・分断」だと整理できます。
制度・政策共同体・対話学習・思索
実践の中心は、複数の水準での測定です。個人・チーム・組織・地域・国のそれぞれで幸せを測ります。次にシステム思考(要素の相互作用として全体を捉える考え方)に基づく介入設計があり、学校・組織・都市の全体を設計します。文化に根ざした尺度の開発と翻訳(協調的幸福やバランスと調和の項目)、政策(幸福度指標・ウェルビーイング予算)との接続、学際的な協働、自然との接続を含むウェルビーイングも実践に含まれます。個人向けの介入は否定しませんが、単独では不十分と見ます。
幸せはどこで実現するのでしょうか。個人と、関係・集団・組織・社会・生態系という複数の水準です。所在は一つに定めません。システムの状態そのものが所在です。
いつ実現するのでしょうか。現世です。ただし、世代を越える持続可能性(生態系・次世代)を視野に含める点で、「世代」の時間も入ります。まとめると、幸福はシステムの相互作用のなかで立ち上がり、個人はその一部として幸福になる、という関係構成・システムモデルです。実践の形は制度・政策、共同体・対話、学習・思索に分類されます。
「私」と世界の境目
ポジティブ心理学3.0の自己観は、関係的です。システム論的で、自然を含む志向を持ちます。個人はシステムに埋め込まれており、幸福は関係の状態として立ち上がります。
「私」と世界の関係の型で言えば、関係型(システム論的。自然を含む志向)です。先住民的な世界観の関係型(拡張)に接近します。ただし、個人の主観的な報告は測定の単位として保持されます。個人が消えるのではなく、個人がシステムの一部として位置づけられる、という構図です。
境遇(運)と、努力か贈与か
境遇については「非独立」です。社会的・生態的な条件そのものが幸福の構成要素であり、境遇の不平等はシステムの問題として扱われます。
努力か贈与かについては、制度と関係による供給です。システムの状態が個人の幸福を可能にします。努力の次元は、個人の努力ではなく「システムを変える」という集合的な行為に移ります。
苦しみの位置
苦しみは、システムの不均衡のシグナル(関係の失調を知らせる信号)です。苦は個人の欠陥ではなく、社会的・環境的なずれの現れとして読みます。修復は、個人ではなくシステムの水準で行います。
目盛りの定義は 17のマップ の各「目盛りの定義」を参照。
ヘドニア/エウダイモニア、三分類の枠組み
現代の幸福研究では、幸せをヘドニア(快と満足としての幸福)とエウダイモニア(人間としての機能の発揮としての幸福)に分けることがあります。ポジティブ心理学3.0は両方を含みつつ、どちらにも還元しません。文化ごとに快と機能の重みが違うことを前提にします。バランスと調和は、第三の軸として提案されています。
もう一つの枠組みとして、快楽説(快が善)/欲求充足説(望みが叶うことが善)/客観的リスト説(快や望みとは独立に、良いものの一覧がある)という三分類があります。3.0は、客観的リスト説を複数の水準に拡張したものに近いです。ただし、リストの内容が文化によって異なることを認める点で、単一のリストを立てません。
前野4因子との相性(やってみよう=○ ありがとう=◎ なんとかなる=△ ありのままに=○)
前野隆司(幸福学の研究者)の4因子との相性は次のとおりです。
ありがとう(つながりと感謝)=◎(とてもよく合う)。関係・共同体水準のウェルビーイングが中心だからです。
ありのままに(独立と自分らしさ)=○(合う)。多元性の受容と、バランスと調和が対応します。
やってみよう(自己実現と成長)=○(合う)。システムを変える集合的な行為が対応します。
なんとかなる(前向きと楽観)=△(一部合う)。個人の楽観は主題ではありません。
生きとし生けるものの幸せ(○ 含むが、人間との差はある)
生きとし生けるものへの配慮は○(含まれる)です。生態系のウェルビーイング(planetary/ecological wellbeing。地球や生態系の良い状態)を明示的に射程に入れ、先住民の関係的ウェルビーイングを参照します。ただし、人間の幸福の条件としての自然、という枠組みが中心です。人間以外の存在そのものの福祉を中心に置くには至っていません。
研究でどこまで確かめられているか
研究の裏づけは「少〜中」です。文化比較と多水準の記述研究が基盤ですが、3.0固有の検証は未着手です。
①集団・組織水準のウェルビーイング研究(組織のウェルビーイング風土、学校全体アプローチ)は一定数あります。②文化比較研究として、協調的幸福(一言(ひとこと)と内田、2015年)、バランスと調和の世界調査(ロマスら、2022年)、グローバル・フラーリッシング・スタディ(ヴァンダーウィールら、2025年)が3.0の実証的な基盤です。③システム思考に基づく介入の効果検証は始まったばかりです。複雑系としての検証方法自体が、まだ確立していません。
注意点として、3.0固有の主張(複雑性・多水準の相互作用)の直接検証はほぼありません。研究の対象は、思想そのものというより、その基盤となる文化比較の記述です。
どこから来て、どこへ流れたか
どこから来たか。ポジティブ心理学1.0・2.0、システム論と複雑系科学、文化心理学(内田由紀(うちだ・ゆきこ)と北山忍(きたやま・しのぶ)の協調的幸福=人との調和や平穏を重んじる幸福の研究)、人類学・宗教学の幸福観研究、ケイパビリティ・アプローチ(人が実際に実現できる能力や機会を重んじる考え方。制度と機会)、先住民的な世界観(関係的ウェルビーイング)、プラグマティズム(経験と環境の相互作用を重んじるアメリカの哲学)から影響を受けています。
どこへ流れたか。グローバル・フラーリッシング・スタディ(ヴァンダーウィールらによる22カ国・20万人の国際調査。2022年〜)、世界幸福度報告の「バランスと調和」の章(2022年)、ウェルビーイング政策の多水準化、そして本マップへ流れています。
発達段階論から見ると
キーガン(成人の心の発達段階を研究した心理学者)の段階論では、段階3(周囲に合わせる自己)、段階4(自分の基準を持つ自己)、段階5(自分の枠組みを相対化できる自己)と進むと考えます。ポジティブ心理学3.0は、段階4.5(グリーン。関係性・多元性の再獲得)に最も近いです。自律的な個人という前提(1.0)を経たうえで、関係・文化・システムの多元性を中心に据え直します。
器(実践を運営する自己のあり方)は持ちません。ただし、組織・政策への実装を志向する点で、器を設計しようとする立場といえます。以上はこのマップの解釈です。発達段階マップでは、器=なし、目標(目指す自己のあり方)=段階4.5と記されています。なお、高い段階ほど良いという読みはしません。
型は【関係を結び直す/制度で供給する】です。個人向けの介入から、チーム・組織・地域・政策という複数水準の設計へ移ります。文化に根ざした尺度(協調的幸福、バランスと調和)で測り、システムの状態に働きかけます。
注意点があります。複雑系としての介入設計は方法論が未確立です。「システムを整える」は、現時点では方針であって手法ではありません。
安全装置制度・法・専門職倫理共同体の相互監視
タグは「制・共」です。制=制度と公共的な規範に安全を委ねる、共=共同体と開かれた討議で支える、という意味です。
具体的には、学際的な査読(研究者同士の相互審査)と多水準の測定、政策の公開性が安全装置です。文化的多元性の尊重が、「幸福の統治」(幸福を管理指標にすること)への安全装置として機能することが期待されています。しかし方法論は未確立で、安全装置もまだ設計段階です。
誤解されやすい点
①3.0は1.0・2.0を否定するのではなく、包み込む立場です(ロマスら自身の整理)。
②「システム」「複雑性」は、現時点では研究の方針であり、確立した理論や介入法ではありません。
③文化的多元性を認めることは相対主義(何でも正しいという立場)ではありません。比較可能な測定の維持と両立させようとしています。
④本マップの問題意識(幸福観の多元性・主語の複数性・道徳的配慮の範囲)と重なるため、本マップは3.0の一つの実践例と見ることもできます。その分、判定に自己言及的な偏りが入りうる点に注意が必要です。
⑤最も新しい項目であり、5年後には位置づけが変わる可能性が高いです。
学者の間で議論があること
①「第三波」は独立の段階なのか、2.0の延長なのか、それとも単なる学際化の呼び名なのか(ウィッシング、2022年)。
②複雑系の概念は比喩にとどまっていないか。測定・介入の方法論が追いついていません。
③文化的多元性を認めることと、比較可能な測定を維持することの緊張。測定不変性(同じ尺度が異なる文化で同じものを測っているか)の問題です。
④脱WEIRDを掲げつつ、研究者と資金は依然として英語圏に偏っています。
⑤生態系のウェルビーイングをどこまで含めるか。人間中心のままではないか、という問いです。
⑥政策との接続が「幸福の統治」(幸福を管理指標にすること)を招く危険。
こんなときに:自分一人がいくら整えても、職場や家庭や環境が変わらなければ幸せになれないと感じるとき。関係と環境ごと考えたい人に。
小さな入口:自分の幸せを「私」ではなく「私たち(家族・職場・地域・自然)」の単位で一度描き直す。個人の努力と環境の設計を分けない。
この思想が出てくる悩み:「人とのつながりが薄く、自分が誰なのか分からない」「自分が整っても、職場や社会が変わらなければ幸せになれない気がする」
判定が近い思想:スマック・カウサイ・マオリ・先住民的世界観(総論) → 思想の近さマップ
この新しい波の支配的な特徴は、「個人を越えて」視野を広げ、より大きな複雑性へ向かう全般的な動きである。
「第三波」の定義文。幸福の主語を個人から関係・集団・システムへ、単純な要素の足し算から複雑性へ移す宣言。
したがってポジティブ心理学の目的は、ウェルビーイングを支えるシステムの条件をつくることであり、同時に個人に変化のための方策と動機を提供することである。
実践の重心が「個人の幸福を増やす」から「幸福が生まれるシステムを整える」へ移ったことを示す一文。
システム情報型ポジティブ心理学は、システム科学の原理と概念を理論・方法・実践・言説に取り込み、人間の社会システムとその中の個人を最適化しようとする。
3.0の方法論的中核。個人はシステムに埋め込まれており、幸福はシステムの状態として立ち上がるという見方の出発点。
ポジティブ介入の効果を検証する無作為化比較試験は依然として主に西洋諸国で行われており、研究の78.2%を占めていた。
3.0が「妨げ」とみなすWEIRD偏り(西洋・高学歴・工業化・豊か・民主的な社会への研究の偏り)を数字で示した論文。
バランスと調和の経験、そしてそれらを求める志向は、普遍的な意義と魅力を持つように見える。
「高揚した幸せ」に偏った尺度を相対化し、東アジア的とされてきた「バランスと調和」が世界中で幸福の中核にあることを示した実証。
主な典拠:Lomas, T., Waters, L., Williams, P., Oades, L. G. & Kern, M. L. (2021) Third wave positive psychology: Broadening towards complexity, Journal of Positive Psychology 16(5)/Kern, M. L. et al. (2020) Systems informed positive psychology, Journal of Positive Psychology 15(6)/Lomas, T. (2016) Towards a positive cross-cultural lexicography, Journal of Positive Psychology 11(5)/Hendriks, T. et al. (2019) How WEIRD are positive psychology interventions?, Journal of Positive Psychology 14(4)/Lomas, T. et al. (2022) Insights from the first global survey of balance and harmony, World Happiness Report 2022
参考文献:Wissing, M. P. (2022) Beyond the "third wave of positive psychology": Challenges and opportunities for future research, Frontiers in Psychology 12/VanderWeele, T. J. et al. (2025) The Global Flourishing Study, Nature Mental Health/Uchida, Y. & Kitayama, S. (2009) Happiness and unhappiness in East and West, Emotion 9(4)/Hitokoto, H. & Uchida, Y. (2015) Interdependent happiness, Journal of Happiness Studies 16(1)/Oades, L. G. et al. (eds.) (2021) The Palgrave Handbook of Positive Education/Lomas, T. (2023) The Positive Psychology of Wellbeing across cultures(概説)
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