世界の思想と宗教の幸福観マップ

各思想からの悩み相談30 ・ 自分 19/30

人と比べて落ち込む

この悩みの形

人と比べること自体は、悪いことではありません。アドラー(オーストリアの医師。個人心理学の創始者)は、「自分はまだ足りない」という劣等感は誰にでもある正常な感覚で、成長の原動力だと考えました。苦しいのは、比べることではなく、比べる軸が「勝ち負け」に固定され、比べる相手が無限にいることです。SNSは、世界中の人の一番良い瞬間だけを、あなたの一番疲れた時間に届けてきます。昔の村なら比べる相手は数十人でしたが、今は数十億人です。構造として、勝てるようにできていません。

本マップの目盛りで見ると、この悩みは幸せの主語が「個人」にあり、評価の軸が「他人より上か下か」になっている状態です。伝統の答えは大きく二つに分かれます。一つは、主語を個人から関係や共同体へ置き換える道(関係構成型)。比較の軸を「勝ち負け」から「貢献」や「役割」に変えると、同じ劣等感が別の力に変わります。もう一つは、比較そのものを善悪の判断から外す道(認識転換型・除去型)。比べる動きを止めるのではなく、比べた結果に「だから自分は駄目だ」という判断を上乗せしない、という道です。

世の中の標準的な答えは「自己肯定感を上げよう」ですが、届きにくいのには理由があります。「自己肯定感を上げる」努力そのものが、肯定感の高い人との比較になるからです。本マップの伝統は、肯定感を足す以外の語彙を持っています。以下、型ごとに並べます。

先に言っておきたいこと

「比べない」「ありのままに」という伝統の言葉を、比べてしまう自分を責める道具にしないでください。比べることは人間の正常な働きで、アドラーもそれを病とは見ませんでした。また、「幸せは気の持ちよう」で片づけないでください。比較で見えている差の一部は、本人の構えではなく、環境や制度の不公正です。ケイパビリティ・アプローチが言うように、そこは個人の心ではなく社会の側で埋めるものです。伝統の言葉は、比較の軸を変えるためのものであって、差を我慢するためのものではありません。

各思想からの答え

関係構成型——比較の軸を「勝ち負け」から「貢献」へ

アドラー(個人心理学)

アドラーは『人生の意味の心理学』で「劣等感はある程度まで私たち全員に共通している。誰もが、改善したいと望む状況の中に自分を見いだすからだ」と書きました。問題は劣等感ではなく、それを口実に課題から逃げること(劣等コンプレックス)と、優越への努力が「自分だけ上に行きたい」に向かうことです。これを引きつけると、比較の軸を「勝ち負け」から「貢献」に変える、ということです。誰かの役に立てたと感じた瞬間を一つ思い出す。そのとき劣等感は、勇気に変わります。

儒教(原始)

『論語』学而篇の冒頭に「人知らずして慍みず、亦君子ならずや」(慍む=うらむ)とあります。人に認められなくても腹を立てない人が君子だ、という意味です。儒教は、幸せを他人との優劣ではなく、関係のなかで役割を果たし、学び、楽しむ活動そのものに置きます。顔回(孔子の最も優れた弟子)は貧しい路地で粗末な食事をしながら、その楽しみを変えませんでした。今のあなたに置き直すと、比較の物差しを「あの人より上か」から「今日、自分の役割のなかで育てられた徳は何か」に持ち替えるのです。役割は檻ではなく、修養の場です。

Ubuntu

南部アフリカのUbuntu(ズールー語などで「人であること」)では、人は人々を通して人になります。人格は、他者の人間性を認めることによって自らの人間性を確かめる、という相互の承認のなかで達成されます。比較の相手を「勝ち負けの相手」から「自分を人にしてくれる相手」に読み替える、ということです。あなたが見上げている人も、あなたに見られることで人になっています。優劣の網と、人を人にする網は、同じ人たちで作られた別の網です。

マオリ

マオリ(ニュージーランドの先住民)には、自分の強さは一人の戦士の強さではなく多くの者の強さだ、という趣旨の諺があります。達成は個人ではなく集団に帰属する、という見方です。マオリの自己紹介(ペペハ)では、山・川・祖先を先に述べ、自分の名前は最後に来ます。あなたの場面で言えば、比べているのが「個人の成果」であるとき、その成果の背後にある関係の網(家族、土地、先に歩いた人)を数に入れるのです。一人で勝ち負けを背負う重さは、そもそも個人のものではありません。

認識転換型——比べるものを善悪の外に置く

ストア派

ストア派(古代ギリシャ・ローマの哲学の学派)は、世界を「自分次第のもの」と「そうでないもの」に分けます。他人の才能、収入、評判、フォロワー数——これは自分次第ではありません。ストア派はこれらを「無記」(善でも悪でもないもの)と呼び、幸福に何も足さないし引かないと言います。比べてしまうこと自体は止めなくてよく、比べた結果を善悪の判断から外す、ということです。自分次第なのは判断と行動だけです。今日の行動が自分の基準に適っていたか。それだけが、ストア派の採点表です。

道家(老荘)

『荘子』の斉物論篇は、大小・貴賤・是非といった区別は人間の視点が勝手に作ったものだと見抜きます。比較の軸そのものが、視点によって作られた仮のものです。『老子』は、足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うくない、と言います。ここから言えるのは、「上か下か」という区別は自然界にはなく、人の視点が持ち込んだものだ、と一度見てみるのです。無為(作為をやめること)は、比較をやめようと頑張ることではなく、比べる視点に力を貸すのをやめることです。

キュニコス派・ピュロン主義

『哲学者列伝』6.37に「子どもが両手で水をすくって飲むのを見て、ディオゲネスは頭陀袋から椀を投げ捨てて言った。『子どもに、質素さで負けた』」という逸話があります。キュニコス派は、名誉・富・評判を自然が求めるものではなく、慣習が作った虚妄と見ました。ピュロン主義は、「これは本性上善い/悪い」という断定を保留します。今のあなたに置き直すと、「当然持っているべき」と思っているものを一つ選び、本当に必要かを問う、ということです。慣習が作った必要を一つ手放すたびに、比較の対象が一つ減ります。

除去・回復型——「比べる動き」を見る

仏教(上座部)

上座部仏教(パーリ語の経典を用いる仏教の系統)は、「もっと欲しい」「あの人のようになりたい」という渇愛(かつあい)を苦しみの正体と見ます。到達点は「ありのままに」、つまり比べないことですが、それは自己肯定の技法ではなく、固定した「私」が見つからない(無我)という観察の帰結です。比べてしまった瞬間に「今、比べているな」と気づくだけにするのです。比較をやめようとするのではなく、動きを見る。前野隆司の4因子で言えば「ありのままに」に最も近い領域ですが、無我の文脈を落とすと技法だけが残ります。

エピクロス派

エピクロス派(古代ギリシャの哲学の学派)は、富・名声・権力を「空虚な欲望」と呼びました。自然が要求せず、限界のない欲望だからです。比較で測っているものは、たいていこの種類に属します。一方、自然で必要な欲望(食事・睡眠・安全・友)には限界があり、満たせば足ります。あなたの場面で言えば、比べて落ち込んだとき、落ち込んだ項目が三つの欲望のどれに属するかを分けてみる、ということです。空虚な欲望での負けは、この伝統の基準では、幸福に何も引きません。

新儒教

新儒教(宋の時代に儒教を哲学的に再構築した学派)は「顔回は貧しさのなかで何を楽しんだのか」を千年近く考えました。周敦頤(11世紀の思想家)の答えは、顔回が貧しさを楽しんだのではなく、富貴を「小さいもの」と見て心を動かされない境地にいた、というものです。比べて負けている項目を「小さいもの」と見られる場所が、自分のなかにあるかを探すのです。王陽明は楽を心の本体と呼び、常人も持っているが自ら知らないだけだ、と言いました。比較は、その楽を覆う曇りの一つです。

神道

神道は、人生に付着した「穢れ」(けがれ。生命力をくもらせるもの)を祓って本来の清らかさに戻る、という繰り返しを基本の形にします。反省や悔い改めではなく「祓う」のが回復の方法で、あなたが悪かったかどうかを問いません。ここから言えるのは、SNSを見て落ち込んだあとの気分を「くもり」として扱い、画面を閉じて手を洗う、という小さな祓いを一つ持つ、ということです。比べた自分を責める時間は要りません。付着したものを流して、次に進みます。

贈与・応答型——比べる前に、受け取っているものを数える

仏教(浄土)

浄土教(阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称える仏教の流れ)の悪人正機(あくにんしょうき)は、努力の多寡と救いを切り離します。自力を頼めない人こそ本願の正しい対象だ、という逆説です。人はもともと凡夫(欲や怒りを断てない普通の人)で、そのままで救われている。今のあなたに置き直すと、他人より劣っていることが、受け取るものの量に関係しないのです。比較の上で勝ってから受け取るのではなく、先に受け取っている。この順番の逆転が、浄土教の安心です。

ユダヤ教

『ミシュナ』アヴォート4:1に、ベン・ゾマの言葉として「誰が富める者か。自分の取り分を喜ぶ者だ」とあります。ユダヤ教は幸せを、契約のなかで与えられた自分の分を喜び、隣人と正しく関係することに置きます。富を「他人より多く持つこと」ではなく「自分の取り分を喜べていること」で定義し直す、ということです。あなたの取り分は、他人の取り分と比べて決まるものではなく、契約のなかですでに与えられているものです。

カバラ・ハシディズム

18世紀に東欧で広まったハシディズム(ユダヤ教の神秘主義的な大衆運動)は、喜びを義務とし、憂鬱を最大の敵としました。バアル・シェム・トヴに帰される教えでは、人に讃えられようと蔑まれようと、すべてが同じであるように、という内的な平静(ヒシュタヴート)が、神の遍在への信頼から導かれます。あなたの場面で言えば、褒められた日も見下された日も同じ重さで受け取る練習を、信頼の側から始めるのです。比べて落ち込む憂鬱は、この伝統では、戦うべき第一の相手です。

制度・集計型——物差しは一つではない

ケイパビリティ・アプローチ

セン(インド出身の経済学者)は、人の生の良さを所得や満足度ではなく「価値ある生き方を実際に選べる自由の幅」で測ります。同じ収入でも、健康や社会の慣習によって、実際にできることは違います。比べている指標(年収、肩書き、フォロワー)が、本当に「選べる生き方の幅」を測っているかを問い直す、ということです。また、長く抑圧された人は望みの水準自体を下げてしまうので、「自分は幸せです」という感覚だけでは剥奪が隠れる、と指摘します。比較で落ち込むことが、環境の不公正を映している場合もあります。

ポジティブ心理学3.0

ポジティブ心理学の最新の展開は、幸せの意味は文化によって違い、どれか一つが正解ではない、と考えます。「高揚した幸せ」に偏った尺度を相対化し、東アジア的とされてきた「バランスと調和」が世界中で幸福の中核にあることを示した調査もあります。ここから言えるのは、SNSが見せてくる達成型の幸せは、数ある物差しの一本にすぎないのです。あなたが比べて負けているのは、その一本の上だけです。幸せは個人の中ではなく、関係と環境のシステムのなかで立ち上がる、というのがこの立場です。

今日からできる三つのこと

試すなら、この中から一つ。伝統の実践(瞑想・行・祈り)の代わりではなく、考え方に触れるための小さな入口です。

  1. 比べて落ち込んだ項目を一つ書き、「自然で必要なもの」「自然だが不必要なもの」「空虚なもの」のどれかに分類する。空虚な欄に入ったら、その日は手放す(エピクロス派)
  2. 誰かの役に立てた瞬間を一つ、寝る前に思い出す。勝ち負けの帳簿とは別の帳簿を一冊持つ(アドラー(個人心理学))
  3. SNSを閉じたあとに、手を洗う。画面で受け取ったものを「くもり」として流す合図にする(神道)

こういうときは専門家へ

SNSを見るのを自分で止められない、見たあとに自分を傷つけたくなる、体型や外見の比較から食べることが乱れている、眠れない、何をしても自分は無価値だという考えが一日中頭を離れない、消えてしまいたいと思う——これらは構えの問題ではなく、医療や相談の対象です。心療内科・精神科、または各都道府県の精神保健福祉センターに相談できます。電話では、こころの健康相談統一ダイヤル(0570-064-556)、よりそいホットライン(0120-279-338。24時間)があります。消えてしまいたいという思いが具体的になってきたら、いのちの電話や#いのちSOS(0120-061-338)につないでください。中高生なら、スクールカウンセラーや教育支援センターにも相談できます。

つらさが強いとき・「消えてしまいたい」と感じるときは、どうかひとりで抱えないでください。まもろうよ こころ(電話・SNSの相談窓口一覧)/よりそいホットライン 0120-279-338(24時間・通話無料)。
ひとこと比べる相手を、あなたを人にしてくれる相手に読み替える。

この悩みを含む30の悩みは、PDFでも読めます:各思想からの悩み相談30(PDF)

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内容の近さをAIで自動計算して選んでいます。保存版コレクションの一覧 →

はぴテックの二枚の地図 発達段階×ウェルビーイング統合マップ → この幸福観マップの姉妹版。あちらは「縦に5段階を貫く翻訳辞書」で、同じ言葉が段階ごとに別の意味で聞こえる(875行×5段階)。