世界の思想と宗教の幸福観マップ

各思想からの悩み相談30 ・ 仕事 8/30

定年後、何をしたらいいか分からない

この悩みの形

定年で終わるのは、仕事だけではありません。朝起きる理由、名刺の肩書き、「お疲れさま」と言い合う相手、一日の形。それらが一度に消えます。本マップの目盛りでいえば、これは「幸せの主語」と「役割」の問題です。47の伝統のうち、幸せの主語を関係や共同体に置く伝統は28あります。多数派の伝統から見ると、定年後の空白は「やりたいことが見つからない」という個人の問題である前に、「役割を失って関係の網から外れた」という関係の問題です。

現代の標準的な答えは、ここでも開花型(持っている力を伸ばして発揮することを幸せと見る型)です。「第二の人生で自分らしさを」「新しい挑戦を」。それが届かないことがあるのは、四十年間、役割の中で生きてきた人に「役割なしで自分らしく」と言うのは、泳ぎ方を知らない人を水に投げ込むようなものだからです。定年後の空白に必要なのは、作る語彙より、受け取る語彙(贈与・応答型)と、関係の中で役割を結び直す語彙(関係構成型)、そして人生の後半には午前とは別の課題がある、という語彙(副産物型)かもしれません。この文章では、その順に並べます。

先に言っておきたいこと

「役割のなかで徳を修める」という儒教の語彙は、家族への過剰な介入や、地域での肩書き探しに転びやすい言葉です。役割は自分の輪郭を取り戻すためのものであって、誰かの生活を支配するためのものではありません。また「受け取る」「遊ぶ」「平常心」という語彙は、外から見ると閉じこもりや無気力と区別がつきません。これらの伝統は共同体のなかで実践されてきたものです。一日誰とも話さない日が続く、酒の量が増えた、何にも興味が湧かない、という状態は、構えの問題ではなく、次の節で扱う問題です。

各思想からの答え

関係構成型——役割は檻ではなく、輪郭

儒教(原始)

原始儒教(孔子・孟子・荀子の初期の儒教)は、人は役割、つまり父・子・君・臣といった「名」において自己が構成されると考えます(正名論)。そして幸せを、人倫(人と人との関係)のなかで徳を修める活動そのものに置きます。『論語』学而篇の冒頭は「学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや」です。この三つに肩書きは要りません。会社での役割を失ったのなら、家、地域、友人のなかで小さな役割を一つ持ち直す、ということです。儒教にとって役割は檻ではなく、自分の輪郭を取り戻す場所です。

アイヌ

アイヌ(北海道の先住民族)の世界観では、人とカムイ(熊・火・道具などに宿る神々。善いものも悪いものも含みます)が互いに贈り合い、その循環が正しく回っていることが「ピリカ(良い)」な状態です。アイヌに伝わる言葉として「天から役目なしに降ろされたものは、ひとつもない」が広く知られています(一次資料での初出は未確認です)。これを引きつけると、役目とは会社が与えるものではなく、存在に初めから付いているものだ、という見方です。定年で失ったのは役目ではなく、役目の一つの形にすぎません。ただし、同化政策の歴史を背負った伝統であることを忘れず、「知恵」として軽く持ち出さないでください。

Ubuntu

ウブントゥ(南部アフリカの「人であること」を指す言葉)は、人は他の人々を通してはじめて人になる、と言います。人格は生まれつきの資格ではなく、関係の中で達成されるものです。今のあなたに置き直すと、定年後に「自分が何者か分からない」と感じるのは自然なことです。人であることを確かめてくれる関係が、職場ごと減ったからです。必要なのは新しい趣味より、「あなたを人として扱う関係」が一本あるかどうかです。歓待、気前のよさ、丁寧な言葉遣い。ウブントゥの日常の実践は、そのまま定年後の実践になります。

アドラー(個人心理学)

アドラー(フロイトと決別して個人心理学を創始した医師)は、人生の課題を仕事・交友・愛の三つに分けました。幸福は、共同体の役に立っているという感覚(貢献感)に後からついてくるものです。定年とは三つの課題のうち一つが形を変えたにすぎません。残りの二つは続いています。そして「貢献」は、報酬や肩書きとは無関係です。誰かの役に立てたと感じた瞬間を一つ思い出し、それを今日もう一度作る。アドラーにとって勇気は、そこから戻ってきます。

副産物型——人生の午後は、午前の付け足しではない

ユング(分析心理学)

ユング(スイスの精神科医。分析心理学の創始者)は「人生の午後にもそれ固有の意味がなければならず、人生の午前の哀れな付け足しであってはならない」(『人生の転換期』)と述べました。人生の前半は外的な達成、後半は内的な全体性の課題に向かうべきだ、というのがユングの考えです。あなたの場面で言えば、定年後の空白を「午前と同じ充実をもう一度」で埋めようとすると、たいてい失敗します。午後には午後の課題がある。認めたくなかった自分(影)と向き合うこと、達成の裏で後回しにしてきた問いに戻ること。ユングはこれを個性化と呼び、生涯かけて完結しない過程としました。空白は欠損ではなく、午後の始まりです。

実存主義

実存主義(人間にはあらかじめ決まった本質がなく、自ら選ぶことで自分を作る、と考える哲学)のうち、フランクル(強制収容所を生き延びた精神科医)の意味療法は、意味を実現する価値を三つ挙げます。何かを創り出す創造価値、何かを体験する体験価値、変えられないものにどんな態度をとるかという態度価値です。定年後に創造価値(仕事)が減っても、体験価値と態度価値は残ります。むしろ仕事をしている間は後回しだった体験価値——見る、聞く、味わう、人と会う——が、初めて前に出てきます。意味は与えられるものではなく、この三つのどこかで自分が見つけるものです。

贈与・応答型——作らなくても、受け取っている

仏教(浄土)

浄土教(阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称える仏教の流れ。法然と親鸞)の幸福は、凡夫(ぼんぶ。欲や怒りを断てない普通の人)が他力(阿弥陀仏の願力。「他人任せ」ではありません)によって救われるという確信に置かれます。念仏は報恩(受けた恩への感謝)の行為です。ここから言えるのは、四十年間、自分で稼ぎ、自分で成し遂げてきた人にとって、「何もしていない自分には価値がない」という感覚は自力の名残です。浄土教は、何かを成し遂げなくても、すでに受け取っているものがあると言います。「ありがたい」が先で、何かをするのはそのお礼として後からついてくる。この順番は、定年後の一日の組み立て方そのものです。

ユダヤ教

ユダヤ教では、トーラー(律法)を学ぶこと自体が最高の実践とされます。学ぶことは手段ではなく、それ自体が善です。また安息日は、週に一度、労働をやめて時間を聖別する義務です。今のあなたに置き直すと、定年後の時間は「空いた時間」ではなく、学びと安息が初めて義務として許された時間だ、と読み替えられます。何かの役に立つために学ぶのではなく、学ぶことそのものが生の中心にある。この伝統では、それは余生ではなく本番です。

除去・回復型——持っていたものが減っても、減らないもの

新儒教

新儒教(11〜12世紀の宋の時代に儒教を哲学的に再構築した学派)の根本の問いは「孔顔楽処」、孔子と顔回は何を楽しんでいたのか、です。顔回は一椀の飯と一瓢の水で貧しい路地に住みながら、その楽しみを改めませんでした。王陽明は「楽は心の本体である」(『伝習録』)と言い、私欲という曇りを取り除けば、貧富に左右されない楽が自ずから湧いてくる、と考えました。肩書きと収入が減ったあとに残っている静かな楽しみ——学ぶこと、理解すること、季節が変わること——に名前をつけるのです。それは定年で減ったものではなく、定年で初めて見えるようになったものかもしれません。

エピクロス派

エピクロス派(紀元前4世紀末のアテナイでエピクロスが開いた学派)は、幸せを身体に苦痛がなく心に動揺がない状態と見ました。快は苦がなくなるところで頭打ちになり、それ以上は増えません。そして友愛を、至福の生のために知恵が備えるもののうち最大のものとしました。あなたの場面で言えば、定年後に「何かを増やさなければ」という焦りは、エピクロスの言う空虚な欲望です。パンと水と友人がいれば足りる。会社の人間関係ではない友人が一人いるかどうかが、この伝統にとっての問いです。

神道

神道(日本固有の神々への信仰と祭祀の伝統)は、年ごとの祭りと季節の更新のリズムのなかで生命が咲き栄えることを幸せの姿とし、穢れを祓って本来の清浄に戻る繰り返しを基本の形とします。会社の年度に代わる、別の一年のリズムを持つことです。氏神への月次参り、季節の行事、庭や畑。神道には「何かを達成する」教義がほとんどありません。繰り返し、清め、更新する。定年後の時間に形を与えるのは、目標ではなくリズムかもしれません。

開花型——単位は、一生涯

アリストテレス

アリストテレス(紀元前4世紀のギリシャの哲学者)は、幸福を徳に即した魂の活動とし、しかもそれは完全な生涯において成り立つと言いました。一日や短い時間が人を幸福にするのではなく、単位は一生涯です。最高度の幸福は、真理を知ること自体を楽しむ観想(テオーリア)にあるとしました。ここから言えるのは、定年は生涯という単位の途中にすぎず、しかも観想は、仕事を離れたあとに初めて時間が取れる活動です。ただし彼は、友人・健康・資力という外的な善が欠ければ徳の活動は妨げられる、とも認めています。

プラグマティズム

プラグマティズム(デューイやジェイムズのアメリカの哲学)は、幸福を完成した状態ではなく、経験が絶えず成長し続ける過程と見ます。デューイにとって成長は、さらなる成長以外の何ものにも従属しません。今のあなたに置き直すと、定年を「成長の終わり」と見る必要はない、ということです。今日、少しだけ経験が広がったことを一つ書く。到達ではなく、広がりが続いていること自体を幸せの定義にしてみる構えです。

認識転換型——目的のない遊び

道家(老荘)

道家(『老子』『荘子』を中心とする中国の思想)の理想像は逍遥遊(しょうようゆう)、目的のない遊びです。そして『荘子』は、技が意識を離れて事物の理に従う無心の状態を、料理人や車輪づくりの名人の逸話で描きました。定年後に「目的」を探すこと自体が、道家から見れば作為です。四十年間、目的のために動いてきた人が、初めて目的なしに動いてよい時間を手にした。それを「空白」と呼ぶか「遊」と呼ぶかで、同じ時間の意味が変わります。

禅

禅(坐禅を中心とし、師との直接のやりとりを重んじる大乗仏教の一派)は、ふだんの心がそのまま道だと考え、悟りを遠くに探す心を病と見ます。今ここの一動作に全部がある、という構えです。あなたの場面で言えば、定年後の一日は、特別なことがなくても成り立つのです。掃除、料理、散歩。作務(さむ。日常の労働を修行とすること)という言葉は、禅が日常の動作に与えた位置です。ただし禅はこれを「何もしなくていい」とは言いません。ただそれだけを、ていねいにする、です。

今日からできる三つのこと

試すなら、この中から一つ。伝統の実践(瞑想・行・祈り)の代わりではなく、考え方に触れるための小さな入口です。

  1. 家・地域・友人のうち一つの関係を選び、そのなかで自分が引き受けられる小さな役割を一つ決める。送り迎え、料理の一品、犬の散歩(儒教(原始))
  2. 肩書きと収入が減っても残っている静かな楽しみを一つ見つけて、名前をつける(新儒教)
  3. 「午前と同じこと」ではなく、仕事中は後回しにしてきた問いを一つ、紙に書き出す(ユング(分析心理学))

こういうときは専門家へ

定年後の数か月から一年は、気分の落ち込みが出やすい時期です。眠れない、食欲がない、好きだったことに何も感じない、朝起きられない、という状態が二週間以上続く場合は、「定年後の空白」ではなく医療の対象です。かかりつけ医、心療内科・精神科、各都道府県の精神保健福祉センターに相談してください。酒の量が増えて止められない場合も同様です。「生きていても仕方がない」という考えが浮かぶときは、いのちの電話(ナビダイヤル 0570-783-556、24時間。フリーダイヤル 0120-783-556 は毎日16〜21時、毎月10日は8時〜翌8時)、#いのちSOS(0120-061-338)、よりそいホットライン(0120-279-338)があります。65歳以上の方とその家族は、お住まいの地域の地域包括支援センターが、健康・生活・居場所の相談を一括して受けています。仕事を続けたい場合はハローワークやシルバー人材センター、地域活動の入口は市区町村の社会福祉協議会です。伝統の言葉は、これらの窓口に向かう足を軽くするためのものです。

つらさが強いとき・「消えてしまいたい」と感じるときは、どうかひとりで抱えないでください。まもろうよ こころ(電話・SNSの相談窓口一覧)/よりそいホットライン 0120-279-338(24時間・通話無料)。
ひとこと午後には午後の課題があります。午前をもう一度やり直す必要はありません。

この悩みを含む30の悩みは、PDFでも読めます:各思想からの悩み相談30(PDF)

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はぴテックの二枚の地図 発達段階×ウェルビーイング統合マップ → この幸福観マップの姉妹版。あちらは「縦に5段階を貫く翻訳辞書」で、同じ言葉が段階ごとに別の意味で聞こえる(875行×5段階)。