各思想からの悩み相談30 ・ 家族 11/30
子どもが学校に行かなくなった
この悩みの形
(なお、文部科学省は2019年の通知で、登校という結果だけを目標にせず、休養の意味や本人の意思を尊重する方針を示しています。本書が対比する「学校に戻す」「本人の力で乗り越えさせる」という答えは、制度の公式方針というより、日常で届きやすい助言の形です。)
朝、子どもが起きてこない。「今日は行くの?」と聞くたびに、家の空気が固くなる。あなた自身も、何が正解か分からないまま、親戚や近所の目を気にしてしまう。文部科学省の調査では、小中学生の不登校は2023年度に約34.6万人と、過去最多を更新しています。それだけ多いのに、世の中の答えはほとんど一本です。「学校に戻す」「本人の力を伸ばして乗り越えさせる」。この答えは、幸せの8つの型でいえば開花型(持っている力を伸ばして発揮する型)に属します。けれども本マップの47の伝統のうち、開花型は6つだけです。残りの41は、別の言葉を持っています。
幸せの主語という目盛りで見ると、構造が見えます。「なぜこの子は行けないのか」という問いは、主語を「一人ひとりの心」に置く問いです。一方、主語を家族・共同体、さらに土地や祖先を含む関係の網に置く伝統は、「この子を取り巻く関係のどこが切れたのか」「家と学校と地域という場のどこに穴が開いたのか」と問います。苦しみの位置も違います。開花型は苦を「取り除くべき妨げ」と見ますが、関係構成型の伝統は「関係が崩れたしるし」と読みます。しるしなら、消すのではなく、何を知らせているかを読む必要があります。
このページは本人ではなく、親や周りの大人に向けて書いています。大人の構えを変える言葉を、型ごとに並べます。
先に言っておきたいこと
不登校の背景には、いじめ、発達特性、起立性調節障害(朝に血圧が上がらず起きられない身体の病気)、うつや不安など、伝統の語彙では扱えない要因が含まれていることがあります。ここに挙げた言葉は大人の構えを変える語彙であって、診断や治療の代わりにはなりません。三つの誤用に注意してください。第一に、「苦は通過点」「擬死再生」を、いじめや暴力のある場に子を戻す理由にしないこと。第二に、「渇愛を見る」「課題の分離」を、子に関心を持たない口実にしないこと。手を引くことと、見捨てることは違います。第三に、瞑想や行などの技法を子に勧めないこと。どの伝統も、師と共同体という安全装置の中で技法を使ってきました。子にはまず、眠りと食事と、安心して話せる相手です。
各思想からの答え
除去・回復型——まず、足すのをやめる
仏教(上座部)
上座部仏教(じょうざぶぶっきょう。パーリ語の経典を用い、東南アジアに広まった仏教)は、苦しみの正体を渇愛(かつあい。止まらない「もっと欲しい」「こうあってほしい」という衝動)に見ます。『ダンマパダ』216偈に「渇愛から憂いが生じ、渇愛から怖れが生じる。渇愛を離れた人に憂いはない」とあります。「学校に行かせたい」という思いも渇愛の一つです。子を変える前に、まず自分の中の「行かせたい」という火を見てください。見ているあいだは、燃料を足さずに済みます。手放さなくてもかまいません。
神道
神道には決まった教義がなく、幸せは祭りや暮らしの実践の中にあります。基本の形は、生命力をくもらせる穢れ(けがれ)を祓(はら)って、もとの清らかな状態に戻る、という繰り返しです。穢れは悔い改めるべき罪ではなく、付着した状態です。これを引きつけると、不登校を「直すべき欠陥」ではなく「くもり」として扱うことになります。くもりは責めて落とすものではなく、休んで、場を清めて、自ずと流れるのを待つものです。朝、一緒に顔を洗う。部屋の空気を入れ替える。それだけを一つの儀礼にしてください。
認識転換型——見方を変えると、問題の形が変わる
禅
禅は、「悟りを手に入れよう」と探し回ることをやめたとき、目の前の一つの動作がすでに答えだった、と気づく道です。平常心是道(びょうじょうしんぜどう。ふだんの心がそのまま道)という言葉が核にあります。今のあなたに置き直すと、「不登校の子」というラベルを外して、今日一日のこの子だけを見ることになります。行くか行かないかを目標から外し、朝ごはんを一緒に食べることを、それ自体として行う。只管打坐(しかんたざ。ただひたすら坐ること)の「ただ」は、学校という目的を手放したときに初めて働きます。禅は「何も考えなくていい」という教えではありません。
ストア派
ストア派(古代ギリシャ・ローマの哲学。奴隷の身から自由になったエピクテトスらが実践した)の出発点は、エピクテトス『提要』1.1の「存在するもののうち、あるものは私たち次第であり、あるものは私たち次第ではない」という区別です。家の空気、自分の言い方、帰ってきたときの顔。これは自分次第です。学校の制度、担任の対応、子の心の中で起きていること。これは自分次第ではありません。後者に力を注ぐと、必ず疲れます。ストア派は我慢の哲学ではなく、「どこに力を置くか」の哲学です。
関係構成型——人は関係の中で人になる
Ubuntu
ウブントゥ(南部アフリカのズールー語やコサ語で「人であること」)には、「人は、人々を通して人になる」という定型句があります(南アフリカ憲法裁判所の1995年の判決でも引用されました)。人格は生まれつきの資格ではなく、関係の中で達成されるものだ、という考えです。学校がこの子にとって「人になる場」でなくなったのなら、別の関係の網が要ることになります。祖父母、近所の大人、習い事の先生、オンラインの仲間。人数ではなく、「この子を一人の人として扱う関係」が一本あるかどうかです。
儒教(原始)
原始儒教(紀元前6〜3世紀の孔子・孟子の思想)では、人は役割(父・子・友といった「名」)において自己が形づくられ、関係の中で徳を実践することそのものに楽(らく。内から湧く充実)があるとされます。『孟子』尽心章句上は、君子の三楽の第一に「父母倶に存し兄弟故無き(父母がともに健在で、兄弟に何ごともないこと)」を挙げ、天下の王になることを含めていません。あなたの場面で言えば、学校での役割を失った子に、家の中で小さな役割を一つ渡すことになります。弟の送り、夕飯の一品、犬の散歩。役割は檻ではなく、輪郭を取り戻す場所です。
アドラー(個人心理学)
アドラー(オーストリアの精神科医。1870〜1937年)は、劣等感を誰もが持つ正常なものとし、それが「誰かの役に立ちたい」へ向かうとき、人は勇気を持てると考えました。岸見一郎の再構成で知られる「課題の分離」(それは誰の課題かを見きわめ、他人の課題に踏み込まない)を使えば、学校に行くかどうかは最終的に子の課題であって、親の課題ではありません。親の課題は、子が「自分は役に立っている」と感じられる場面を用意することです。劣等感は、勝つことではなく貢献することでしか勇気に変わりません。
マオリ
マオリ(ニュージーランドの先住民)の精神科医デュリーが1984年に定式化した「四つの壁をもつ家(テ・ファレ・タパ・ファー)」は、健やかさを、霊性・心・身体・家族という四本の柱が均衡して立つ家にたとえます。土台は土地です。一つが崩れれば家全体が傾きますが、逆に言えば、学校が揺らしているのは一本だけです。残りの三本が立っていれば、家は倒れません。眠れているか、食べているか、安心して話せる相手がいるか、自分より大きな何かとつながっているか。低い柱を一本だけ支えてください。
贈与・応答型——がんばらないところから始まる
仏教(浄土)
浄土教(法然と親鸞が開いた仏教の流れ)は、自力で何とかしようとして疲れ切った親に、いちばん届く言葉を持っています。人はもともと欲や怒りを断てない凡夫(ぼんぶ)で、そのままで救われている。親鸞は、信じようと思い立つ心が起こったとき、すでに摂取不捨(せっしゅふしゃ。おさめとって捨てない)の光の中にある、と説きました。この子を変えなくても、あなたが変わらなくても、すでに受け取っているものがある。「ありがたい」が先で、努力はお礼として後からついてきます。他力とは人任せではなく、「自分で何とかしなければ」という計らいを手放すことです。
ユダヤ教
ユダヤ教で幸せ(シャローム。欠けたところがなく満ちている状態)は、心の気分ではなく、家庭・食卓・共同体という具体的な場に現れます。その柱の一つが安息日です。週に一度、労働をやめて時間を聖別する日は、「休んでもいい日」ではなく「休まなければならない日」です。週に一日、学校の話題も将来の話題も家から消す日を、家族の掟にすることになります。止まることで受け取るものがあります。家族全員が止まる日は、子だけを休ませる日とは違います。
生命力・身体型——心の前に身体
道教
道教(2世紀の中国で成立した宗教。哲学の道家とは区別されます)は、幸せを心ではなく、身体と生命力の問題として最も正面から扱います。生命は精・気・神から成り、暮らしで消耗し、養生(呼吸・食事・体操・睡眠)で満たされると考えます。朝起きられない子に、心の指導は届きません。気が満ちないうちは、心を動かそうとしない。睡眠、食事、日光、歩くこと。身体が満ちると心が後からついてくる、という順序を、まず大人が信じてください。
修験道
修験道(山での修行を中心とする日本の宗教)の行者は、死装束で山に入り、地獄から仏までの境涯を身体で巡って、山を出るときに生まれ変わります。宗教学者の宮家準はこれを擬死再生(ぎしさいせい。いったん死んで生まれ変わる)と呼びました。ここから言えるのは、不登校の時期は、この子が必要としている「山の中」の時間かもしれません。外からは何も起きていないように見えても、中では作り直しが進んでいることがあります。本来の行は先達(せんだつ。指導者)のもとで行うものです。技法ではなく構造だけを借りてください。
副産物型——登校も幸せも、直接追わない
実存主義
実存主義(サルトルやフランクルらの哲学)は、人間にあらかじめ決まった本質はなく、自分で選んだ生き方に責任をもつことを説きます。今のあなたに置き直すと、行くか行かないかの選択を、本人に返すことになります。「あなたが決めていい」と本気で言われた子は、自分の人生を自分で引き受け始めます。不安は消えませんが、不安は自由の裏返しです。フランクル(強制収容所を生き延びた精神科医)なら、「なぜ行けないのか」ではなく「この時間は、この子に何を大切にさせているのか」と問うでしょう。
ユング(分析心理学)
ユング(スイスの精神科医。1875〜1961年)は、幸せを目標にすると逃げると考え、代わりに個性化(自分の認めたくない部分である「影」も含めて、自分の全体になっていくこと)を人生の課題に置きました。彼は、正当な苦しみを回避すること自体が、かえって病を生むと考えています。学校に行けない自分は、この子の影ではなく、全体の一部です。影を含めた全体になっていく過程で、不登校の時期が後から意味を持つことがあります。親が先に、この時期を「なかったことにしない」と決めてください。
制度・集計型——選べる幅を広げる
ケイパビリティ・アプローチ
経済学者センと哲学者ヌスバウムによるケイパビリティ・アプローチは、人の生の良さを、満足度ではなく「価値ある生き方を実際に選べる自由の広さ」で測ります。問うべきは「学校に戻れるか」ではなく「この子が実際に選べる学びの幅はどれだけあるか」です。教育支援センター、フリースクール、オンライン、家庭学習、通信制。選択肢の幅そのものが、この型にとっての幸せです。幅を広げるのは本人の努力ではなく、周りの大人と制度の仕事です。
功利主義
功利主義(ベンサムやミルの思想)は、幸せを快から苦を引いた正味の量として扱い、制度でそれを増やそうとします。測るべきは出席日数ではなく、この子の一日の苦と快の総和です。登校で苦が増えるなら、登校は手段として間違っています。この型は冷たく見えますが、「学校の体面」や「親の世間体」を計算から外す力があります。誰の苦が減るのかを、一度だけ正直に数えてみてください。
今日からできる三つのこと
試すなら、この中から一つ。伝統の実践(瞑想・行・祈り)の代わりではなく、考え方に触れるための小さな入口です。
- 「今日は行くの?」という問いを、一週間だけ封印する。代わりに「おはよう」だけを言う(禅)
- 家の中の小さな役割を一つ、子に渡す。弟の送り、夕飯の一品、犬の散歩。結果を評価しない(儒教(原始))
- あなた自身の「行かせたい」という思いを、紙に一度だけ書き出す。消そうとせず、動いているのを見る(仏教(上座部))
こういうときは専門家へ
朝起きられない、食べられない、眠れない、腹痛や頭痛が続く、消えてしまいたいと言う。こうしたサインは構えの問題ではなく、医療の対象です。小児科・児童精神科につないでください。起立性調節障害は小児科で診断できます。学校との関係では、スクールカウンセラー、自治体の教育支援センター(旧・適応指導教室)が相談先です。いじめが背景にあるなら、学校と教育委員会への相談に加えて、文部科学省の24時間子供SOSダイヤル(0120-0-78310)があります。子ども本人が話したいなら、チャイルドライン(0120-99-7777。18歳まで)があります。親自身が疲れ切っているときは、精神保健福祉センターや、よりそいホットライン(0120-279-338)に電話してかまいません。
この悩みを含む30の悩みは、PDFでも読めます:各思想からの悩み相談30(PDF)
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